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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    四 経営組織の性格と初期荘園の没落
      畿内・近国の荘園との比較
 九世紀の畿内周辺の荘園の経営を示すものとして、近江国東大寺領愛智荘に関するまとまった史料があり、研究も進んでいる。また最近では、藤原宮廃絶後の同地にあった弘仁元年(八一〇)・二年の荘園の経営に関する木簡が出土して注目された(『木簡研究』五)。
 東大寺領愛智荘は、付近の農民の小規模な墾田を集積して成立したものであり、収穫すべてを寺家が収納する「佃」二町と、収穫高の五分の一を地子として収納する地子田一〇町から成り立っていた。このうち、佃から得られる収穫稲は「営料」として出挙して農民に貸し付けられていた。また、元興寺領の「依智荘検田帳」によれば、耕作者は「田刀」(田堵)として耕作を請け負わせる体制をとっていた。この地域では、地域の中核となる大豪族がいなかったが、在地の有力者を田刀として組織し、その不安定な経営を補うために、佃からの稲を出挙して農民に貸し付けるというありかたが、越前荘園にみられなかった大きな特徴である(小口雅史「九世紀に於ける『畿内型』初期荘園の経営構造」『ヒストリア』一一九)。
 このような愛智(依智)荘のありかたは、田堵に荘園の田地を請作させる体制の先駆形態であり、次の時代への展望がここに現われている。ところが、越前においてはこのようなことが史料でみる限りは広範に展開した形跡がなく、八世紀の荘園の多くは荒廃に帰してしまう。その違いの一つは、荘園の耕作を安定して請負う中堅農民の存否にあると考えられている。八世紀の越前ではそのような農民は畿内地方に比べて成長度が低く、国郡の行政機構が深く介入して経営を支えねばならなかった。とくに郡司とその下で働く郡雑任層の力が決定的であった。一方では、中央派遣の田使自身が経営の危険性を自ら負担しなければならず、東大寺(造東大寺司)は在地の行政機構と中央派遣の使を組み合わせて経営機構を作り上げた。大規模開墾を行政機構主体で組織化することは、律令国家の地方支配の体制が揺らいでくるにしたがって、かえって維持が重荷になり、それが不安定な賃租・雇傭関係に基礎をおく労働力の徴募方式ともあいまって没落していったものと考えられる。
 一方、中央の経営主体についていうと、造東大寺司という大規模官司が中央財政の窮乏化などによって成り立たなくなり、延暦八年(七八九)に行政改革で廃止されるが、その力は廃止される前にはすでに衰えをみせていたことも忘れてはならない。田使の性格を述べたところで、経営主体が造寺司から寺家に移管されていくことに注目したが、それは寺家が積極的に経営に乗り出したというより、荘園を経営する主体としての官司そのものの衰えによる消極的な移管ではなかろうか。事実、九世紀にはいっても東大寺は荘園管理の機構の不備を克服できなかったのである(久野修義「中世寺院成立に関する一考察」『史林』六一―四)。
 以上をまとめていえば、越前国の東大寺領荘園の没落は、領有主体の側と農民の側との両方の要因が考えられる。前者としては、経営主体が律令国家と密着していたことにより、その強力な支援を受けるときはよかったが、また外部からの政治的影響をまともに受ける宿命にあったことを挙げねばならない。すなわち、律令国家の地方支配の弱体化や東大寺の政治的地位の低下という外部の環境の変化が直接的に響いてくるのである。一方、後者の要因としては、賃租による労働力の編成の不安定性とそれに応じる中堅農民層の未熟性を挙げうる。最後に、当時の労働力の編成がこのような方式をとらざるをえない社会的背景について述べておきたい。



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