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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    四 経営組織の性格と初期荘園の没落
      越前国東大寺領荘園の衰退
写真86 「越前国足羽郡庁牒」(寺62)

写真86 「越前国足羽郡庁牒」(寺62)

 越前国東大寺領荘園の衰退については、すでに桑原荘・鯖田国富荘・道守荘のそれぞれのところで述べたとおりであるが、ここでは荒廃の様子を最も端的に示す天暦五年(九五一)の「足羽郡庁牒」(写真86)を中心にみてみよう。この文書は、東大寺諸荘収納使が東大寺の命令をうけて、郡庁に対して「検佃帳」にしたがって「作人」を調査するように指示したものである。そこで郡で調査したところ、道守・鎧の荘田は条里はあるが、もとより荒廃しているか原野のままであり、作人はいない状態である。糞置荘田については聞いたこともない。このような報告がなされたのである。前年に出された荘園の目録(寺六一)には、先の諸荘も面積が記されているが、それは寺に伝えられた形だけのものであったことがわかる。
 ところで、この文書で述べられているように、作人(寄作人)の帰趨が荘園の興廃を決する重要な構成要素であったことがわかる。この「寄作人」と荘園との関係の要点は次の点である。(1)耕作者は荘内に居住していないか、たとえ居住していても本貫は荘外にある。(2)それゆえ身分的にも専属農民ではない。(3)耕作関係は一年ごとに更新される請負耕作である。そして、このような関係からいかに専属農民を組織するかが本格的な荘園制への移行の鍵をにぎるといわれる(村井康彦『古代国家解体過程の研究』)。越前国東大寺領荘園は、基本的にそのような本格的荘園への脱皮に失敗したといえよう。
 さて、これまで中心にみてきた八世紀の荘園経営のありさまから、十世紀までとんでしまったが、九世紀はどうであったのであろうか。残念ながら、八世紀のようなまとまった史料が存在しないのでわかりにくいが、すべての荘園が一挙に衰退に向かったのではないらしい。たとえば、弘仁三年(八一二)に布施内親王の越前国高輿荘・蒜嶋荘が東寺に施入され(文一二四)、同九年には酒人内親王が娘の朝原内親王の越前国加賀郡横江荘などを東大寺に施入しているような例がある(寺六〇)。とくに、後者の横江荘荘家跡と思われる遺跡は石川県松任市で近年発掘調査されており、九世紀の建物跡や遺物が検出されている(吉岡康暢編『東大寺領横江庄遺跡』)。また、付近の金沢市上荒屋遺跡からは、「交易布」の進上に関するものや多数の地子進上木簡と思われるものが出土し、九世紀の荘田の経営が明らかになりつつある(写真87)。  なお、越中国では延暦六年(七八七)に、五百井女王家の越中国の墾田が宇治華厳院に寄進されたが(『平安遺文』一)、このような九世紀の荘園では、有力農民を「荘長」として、積極的な経営が行われていたようである。当時荘長は浮浪人などを荘園の労働力として保護し、ときに国郡司の浮浪人に対する調庸収取を妨害することもあったらしい(『類聚三代格』延暦十六年八月三日太政官符)。しかし浪人の駆使をめぐっては、一方で次のような問題も生じていたことにも注意しなければならない。すなわち、承和八年(八四一)二月十一日付「某家政所告状案」によれば、越中国砺波郡大野郷井山荘辺や宇治虫足の保(隣保)の「浪人」はもと東大寺荘園の所管であったが、近年某院(淳和院か)に寄進されたので荘園の経営がうまくいかず、地子を欠く状態であったことを東大寺側が述べている(『平安遺文』一)。  これは先の「足羽郡庁牒」でみた「作人」の帰趨と根本において同様の問題が生じていたことを示している。したがって、初期荘園の労働力の上記(1)〜(3)の問題は、ここでも確かめられる。それでは、この問題はほかの地域ではどうであったのであろうか。このことを考えるために、一度北陸地域を離れて、先進地帯といわれる畿内周辺の九世紀の荘園を対極に選び、地域的特色を考える一つの手がかりとしたい。



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