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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    四 経営組織の性格と初期荘園の没落
      在地の経営機構と田使の関係
写真85 「中野郷戸主物部古麻呂解案」(寺52)

写真85 「中野郷戸主物部古麻呂解案」(寺52)

 郡司の役割については先に詳しく述べたので、ここでは郡司の下で働く「郡雑任」とよばれる人たちの関与のしかたをみてみよう。なお、郡雑任の国郡の政治に占める役割については、第四章第一節で説明したので一部重複するが、ここでは荘園の管理の側面から述べることにする。
 天平神護二年の荘園の一円化の過程で、百姓の墾田が買収されたことはすでに述べたとおりである。その時の道守荘に関する直稲の請求にかかわる文書が七通残っている(寺五〇〜五五・五七)。それに対して直稲をあてがっていった者の署名として、足羽郡目代・道守荘目代という肩書きで、前者は生江臣長浜と生江臣息嶋、後者は宇治連知(智)麻呂の名がみえる(写真85)。このうち宇治知麻呂は先に述べたように道守荘の水守とされた者で足羽郡の人物である。生江氏の二人は、足羽郡の郡司である生江臣東人の広い意味での一族であろう。生江息嶋は安都雄足に対して荘園の経営に関する報告をしているが(寺一八)、それは田使として中央から下ってきた者の管理事務所に収納された地子に関わるものである。
 もう一人「足羽郡下任」を称する道守徳太理(床足)という人物がいたが、彼もその姓からわかるように、足羽郡の有力者の一族であった。この床足や息嶋は、図92に明らかなように、道守荘域に接して自らの墾田を所有していた。彼も安都雄足に対して書状を提出し、道守荘の運営に関して、配下の田使の経営に関する報告を行っている(寺二八)。とくに、道守荘の管理事務所である「産業所」のことについて、「息嶋・床足(徳太理)等が共に議して」執り行うことが述べられていることが注意される(寺二〇)。
 このように、地域の豪族に連なる有力者と思われる人びとが、郡の下級官人の役職についており、彼らが東大寺(造東大寺司)とそこから派遣された田使との中間にたって経営の中核的な役割を担っていた(藤井一二『初期荘園史の研究』)。先に道守荘での郡司の役割に注目したが、むしろ日常的には、郡司ではなく郡衙機構の下級官人たる現地の雑任層が重要な役割を果たしていたのである。
 しかし、これをもって在地の豪族を中心とする関係がそのまま経営機構にとりこまれたと考えるのは妥当ではない。少なくとも東大寺領の場合は、中央の造東大寺司の官人が田使として在地に送りこまれていることも正当に評価されねばならない。それが成功したかどうかは別としても、むしろ彼らが地子収納の第一次的な責任者であったことは重要である。東大寺(造東大寺司)は桑原荘のような荘園はもちろんのこと、豪族の寄進による荘園の場合も、現地の人間に全面的に委任するということはなかったのである。越前国史生から造東大寺司主典に抜擢された安都雄足のもとで、中央派遣の田使を郡衙機構に連なる現地の有力者が監督するという構図が少なくとも足羽郡では考えられる。
 なお、郡司のみでなく、それより下の郡雑任のような在地の有力者のレベルでも京と関係をもっており(寺二〇)、彼らも都城と無縁の人間ではなかった。



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