目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    四 経営組織の性格と初期荘園の没落
      野占使と検寺田使
 越前国における東大寺領荘園の成立事情は先に詳しくみたが、そこでも述べたように「野占使」が派遣されて墾田地の占定を行っていた。いま一度、天平感宝元年(七四九)五月に足羽郡栗川荘を占定した人びとを肩書きとともに示すと、寺使―平栄、造東大寺司史生―生江臣東人、国使(国医師)―六人部東人、郡司(擬主帳)―槻本公老である(寺三四)。
 ここにみえる寺使の平栄は同年の五月五日に「占墾地使僧」として越中にも赴き、越中守大伴家持の歓待をうけているから(『万葉集』一八―四〇八五)、すぐに越中に立ち去ったようである。一方、別の史料では、翌月に占定を行ったのは、史料のうえでみる限りは国司(守と掾)のみである(寺四四)。もちろん、ほかに参加者があっても文面では省略されている可能性があるが、まず都から下ってきた使を交えて占定地の検討が行われたのち、占定地の具体的な確定は国司の責任で行われたのではなかろうか。
 なお、寺使の平栄は、こののち天平勝宝八歳(七五六)十月・十一月に因幡国高庭荘や阿波国新嶋荘の占定を造寺司の役人や国司らとともに行っている(『大日本古文書』東大寺文書二)。越前国でみた野地占定のパターンは、天平勝宝期の東大寺領占定の一般的な形であったことが知られる。
 さて、占定後に寺田の経営を直接行うものではないが、寺田の状態を田籍・田図などをもとに把握し、現地の利害関係の調整にあたるものとして検寺田使(寺田勘使)が臨時に派遣された。この構成は、基本的に野占使と同じで、寺家・造寺司・国司よりなっていた。荘園絵図に署名する者もこの三者である。なお、絵図の署名には田数の計算や測量の技術者と考えられる「算師」もみえる。



目次へ  前ページへ  次ページへ