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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    四 経営組織の性格と初期荘園の没落
      国使の性格
 いま述べた野地の占定を行った官人のなかに国使がみられたが、国衙の役人が荘園の運営を担当したものである。桑原荘では、越前国史生安都宿雄足が国使となっており、その運営の総括責任者的地位にあって、田使の独断を牽制する役割を期待されていた。その他の国使としては伊香男友がみえ(寺四〇)、彼は一方で加賀郡からの舂米などの進上の解に使として署名している(公六)。この文書は別に安都雄足の公廨稲についても報告しているから、安都雄足と関係がある人物であったのかもしれない。  越前荘園の実際の経営に国司の四等官クラスの上層部がかかわった史料は、寺地の占定時を除けば皆無である。もっとも、寺田の調査や用水溝の開削の許可などは、当該地域の土地管理の最高責任者としての国司上層の判断を要した。それゆえ、天平宝字三年(七五九)から八年まで藤原仲麻呂の子が国司となっていた時期は、東大寺領はさまざまの抑圧を被ったのである。
 ところで、越前国での安都雄足の役割を考えるうえで欠かせないのが、石山寺造営関係の文書に紙背を用いられた文書群である。これら一群の文書は他の荘園関係の文書が東南院文書として伝存しているのと異なり、正倉院文書として残っている。文書の性格や安都雄足の役割については第二節に譲るが、雄足は越前国史生をやめて造東大寺司の主典として奈良に帰ったのちも越前国とはさまざまな関係を保っていた。それが以前の地位の延長線上にあることは間違いない。



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