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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      その後の両荘園
 一円化の試みは成功したかどうか、その後の史料がほとんどないことによって不明である。従来、十世紀の荘園目録に面積が挙げられていることから、当時においても両荘園は存続していたといわれ、その理由を地方豪族が経営に強力にかかわったことに求める考え方もあったが、あとで述べるように少なくとも道守荘はその時点では完全に荒廃していたのであるから(寺六二)、かならずしもそうとはいえない。鯖田国富荘もどれだけ実質を有していたか疑問である。
 そこでこのような荘園が没落したのは、荘園経営で依存していた古代地方豪族の力が弱まったことに対応するものであるとの考え方も可能である。ただ、これまで述べてきたように、両荘園はそもそも成立の当初から地方豪族の権威のみによって経営されたのではなく、そのような権威はすでにゆらぎ、豪族たちがあるいは公権力につながり、あるいは新しい富としての稲などの動産をてこにその地の農民を支配する新たな方向を模索していた状況のもとで経営されていた。したがって、東大寺が地方豪族の権威に全面的に依存しようとしていたと考えることは困難である。かといって東大寺が一円化を成功させて、桑原荘のような直接的な賃租関係を形成したとしても、安定的な経営は期待できない。いずれにせよ、荘園に所属する農民(荘民)は当時存在せず、不安定な賃租という一年限りの小作的契約関係に依存しなければならなかった。溝の開削や開墾も雇傭関係によって人を集めねばならなかった。在地の側からみた当時の荘園の不安定性の究極の要因はこのようにまとめられる。
 しかし、それが初期荘園の没落の原因のすべてではない。もう一つ忘れてはならないのは、さまざまな経営にかかわる人的組織の問題で、とくに東大寺や造東大寺司や国司などの中央官司ないし中央派遣官人と在地との関係である。最後にこの問題をまとめて述べておくことにしたい。



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