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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      二つの「寄進」
 これまでこの項では二つの荘園、すなわち坂井郡大領であった品遅部君広耳による寄進を契機にして成立した鯖田国富荘、足羽郡大領となる生江臣東人によって寄進された部分が荘園の中核部分をなす道守荘のあり方をみてきたが、ここで両者を比較しつつ、要点をまとめておこう。
 いずれにも共通しているのは、内部に百姓との関係を内包したまま、東大寺に寄進が行われたことである。したがって、上記の郡司たちが寄進後も東大寺と農民の間にたって重要な役割を果たしていた。たとえば、広耳は東大寺への納入地子を請け負っていたし、道守荘では東人が用水管理に水守をおくなどして積極的に経営に関与していた。その点で、桑原荘が一括して都の貴族から買収されて、旧主との関係はまったくなくなり、もっぱら東大寺と百姓との間で開墾・耕作の関係が形成されたのと大いに異なる。
 ところで、彼らの寄進地はかならずしも豪族自らの大規模な経営、たとえば奴隷制農場のような形や首長としての権威で村人を駆り出して行う共同労働などの形によって開墾・耕作されていたものではない。その点が最もよくわかるのが広耳の寄進墾田で、村落の枠をこえて郡内のあちこちに散在していたことが重要である。その理由は、先に述べたように、おそらく広耳が小規模な農民の墾田を出挙などの債務関係をてこにして集積したからで、そこでは旧所有者である農民は所有権は失っても、広耳のもとで賃租関係を結んで引き続き耕作していたと思われる。賃租関係を結ぶにあたっては、春の耕作前の種稲貸与をともなう競合的な耕作者の決定が重視され、それが秋の地子稲の納入者を確定する重要な行事であった。ここにあるのは伝統的なムラの共同体の姿ではなく、そのなかに動産を媒介とした契約的な関係が割り込みつつある農村の姿である。
 生江東人の寄進墾田は「私功力」による溝の造成によってなったものであるから、大規模な私的経営によって一円的に開墾されたようにみえ、一見広耳の場合とは異質であるようにみえる。しかし子細にみると、私功力による溝の開削作業は、内部に雇傭関係を含み、その労働への百姓の参加は溝造成後の用水の使用を前提としたものであったらしい。したがって、そこにはある種の契約関係が(もちろん今日いうような意味ではないが)成り立っていた。寄進後も、百姓たちが東人によって寄進されたと思われる溝を用いて引き続き開墾・耕作しており、東人は東大寺とはかならずしもうまくいかなかった反面、百姓に抑圧的にふるまった形跡がない。
 つまり、両郡司とも自らの権威によって、隷属する労働力を用いて開墾した排他的な「所領」を寄進したのではない。独立して生計を営む百姓との所有関係の複雑な入組み関係や、債務・用益関係を内包しながらの寄進であった。それゆえ東大寺は寄進後に「一円化」を強力に推し進め、それらの複雑な関係を整理しなければならなかったのである。
 そこでの一円化のもつ意味は両者で異なる。広耳寄進田の場合は、広耳―百姓の旧来の関係を基礎にした賃租経営がかならずしもうまくいっていなかったこともあって、新たな土地に耕地を集中させることによって危機を打開しようとした。東人の寄進した田の場合は、内部・外部の百姓の墾田をあるいは没収し、あるいは買収して寺田に一円化するとともに、地域を支配する公の権力をてこにして、河川から引く長大な溝の造成・補修を計画し、旧来の用水関係の矛盾を克服しようとした。




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