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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      生江東人の開墾と寄進
写真84 「越前国足羽郡道守村開田図」

写真84 「越前国足羽郡道守村開田図」

 天平神護の一円化が道守荘においてもっていた意味は以上のとおりであるが、一円化以前の状態にもどって、とくに生江東人の墾田の寄進についてみてみよう。天平神護二年十月の「足羽郡大領生江東人解」(寺四一)は、東大寺からの尋問に東人自身が逐条的に答えたものであるが、その第一条には東人自身が開いたという溝が問題になっている。その溝は公の川(自然河川)から取水し、延べ二五〇〇丈(約九キロメートル)もの長さに達していた。この溝は東人が郡司に任命される以前に「私功力」によって開いたもので、おそらく、私財を投入して雇傭労働力によって開いたものと推定される。そしてその溝によって開いた田を東大寺に寄進したのである。
 この溝の一部は、道守荘絵図の南端に記された「寺溝」にあたると考えられ(写真84)、この水路に沿って寺田や東人の墾田、百姓の墾田・口分田などがあった。一円化とともに東人の墾田は新たに寺に「寄進」させられ、百姓の墾田は買収ないし没収され、口分田は寺田と交換された。すなわち、この部分は道守荘の最も開発の盛んな部分であるとともに所有関係が最も入り組んだ所であり、東大寺の側からすれば、一円化のさまざまの方策を強力に行うべき部分である。先の史料の別の箇条には、百姓の墾田や収公田が相交わっていたといい(収公田は口分田に班給される場合があった)、寺田の確定後も領域内で新たに開墾された田が摘発されるというありさまであった。
 東人が私財を投入して開いた溝は、従来から指摘されているように、彼ないしその一族が用益権を独占したのではなく、百姓の墾田や口分田のためにも用いられていた。その溝は墾田寄進後「寺溝」となったのであろうが、それを用いての東人や百姓の開墾は寄進後の寺田確定後も行われ、東人は東大寺の尋問を受けねばならなかったのである。
 ここから東人による溝の開発が、「私功力」を強調しながらも、付近の農民の要求をたくみに組織化したものであることがわかる(原前掲論文)。すなわち、郡司としての公権力を用いなくともその労働力編成が可能であったのは、農民たちの利益と通ずるものがあったからであろう。東人と農民とのこのような相互依存的な関係は、東大寺への墾田の寄進後も残っていた。しかし、東大寺にとってみれば、そこに展開する開墾活動の成果を自らのものにするためにも「一円化」に邁進しなければならなかったのである。一円化後に、今度は郡司の公権を前面に押し出して、新しい形で溝の工事を行う計画がなされねばならなかった必然性もここにあったのである。



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