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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      一円化と用水
 鯖田国富荘での一円化は、当地の豪族が百姓との間に有していた債務・賃租関係がからんでいたことはすでに述べた。道守荘ではこのような関係は少なくとも史料上からはうかがえない。それに対して注目されるのは、道守荘での一円化と時を同じくして、長大な溝の開削計画が天平神護二年十月十日に足羽郡司らによって提出されていることである(寺四〇)。それによれば、水路部分だけの幅が一丈(ここでは一丈は一二尺、約三・六メートル)ないし六尺、長さにして一七二一丈(約六キロメートル)もの東大寺領越前荘園のなかでは最大規模の溝である。また、桑原荘でみたのと同じように、百姓口分田の溝との交差には樋が用いられている。この溝のなかには、現実には従来の流路の拡幅などによる部分も含まれていた可能性があるが、いずれにせよ大規模な工事であることにはかわりない。
 この溝は、絵図では寒江の南端から東方に向かっている溝で、その延長線上の小稲津あたりで生江川(足羽川)につきあたる。直線距離にして約五キロメートルであるから、曲折を計算に入れれば六キロメートルぐらいにはなるであろう。その取水点付近には三裏田神社があった(彌永貞三『奈良時代の貴族と農民』)。当時の神社が村落共同体の信仰の中心であったことは一般に認められているが、現在の福井市小稲津町付近には集落があったのであろう。なお、現在もほぼ同じ経路を通って水路(狐川)が走っているが、これがこの計画書の溝かどうか不明であり、この計画が実現したのかどうかもわからない。
 この用水工事の計画について注目されるのは、国司の命令に従って、足羽郡司生江臣東人が寺使や国使とともに具体的に立案したものであることである。そして、その労働力として「寺家ならびに王臣已下百姓等」がともに郡司の指揮のもとで使役されることが述べられている。もちろん、寺家や王臣は実際の肉体労働を行うわけではなく、功直などを負担するという意味でのかかわり方であろうが、いずれにせよ郡司のもとでその領域内の関係者がすべて作業に参加することが求められているのである。すなわち、農民たちがムラの共同体のレベルで集まって作業するのではなく、公権力をもつ郡司のもとで、一定領域内の身分を異にするものがともに作業を行うたてまえが述べられている。この労働はおそらく雇傭労働であり、実際に働くのは農民たちであろうが、その功直を負担するというかたちで寺家や王臣も参加するという意味では、その地域全体にかけられる賦役という性格が濃厚である。
 このようなことを強調するのは、この用水路の造成が生江臣東人の私的な組織力のみでなされるものではないという意味で、のちに述べる一円化以前の「私功力」による溝の開削のしかたと決定的に異なっていることを述べたいためである。一円化するということは、このような大規模な用水開発と一体のものであることが明らかであろう。また、それによって先に述べたようなこの地域の用水問題を一挙に解決することをねらったものと考えられる。ここで郡司に求められているのは、これまで用水をめぐって利害が対立していた寺家・王臣・百姓などに対して、それら当事者を超えた第三者的な立場で調整を行い、あわせて用水の公共性をてこに多様な階層を労働に参加させるという力で、要するに一定の領域を支配する公権力としての立場である。



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