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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      用水をめぐる争い
 道守荘と勅旨御田との間で、用水をめぐる争いが生じた。勅旨御田とは、天皇の命令で国衙の正税を財源にして公の水を用いて開墾された田で、その運営は国・郡の官人のなかで担当者を決めて行った、いわば国家による開墾田である。この道守荘の近くに設けられた勅旨御田も、足羽郡の少領である阿須波臣束麻呂がとくに担当者に任じられ、寒江沼の水を用いて開墾・耕作していた。この寒江沼の水は「元来公私共用の水」であったが、勅旨田ということで独占的に使用する傾向にあったと思われる。
 この水を道守荘でも用いたことで争いが生じ、道守荘の水守であった宇治連知麻呂が召し出されて処罰されるという事態が生じた。その時期は明らかでないが、おそらく仲麻呂政権下であったことは間違いないであろう。その後の政権交替によって、逆に勅旨田を預っていた阿須波束麻呂がわび状を出さねばならなかった(寺四二)。
 以上の状況も、これまでたびたび述べてきた東大寺領荘園をめぐる中央政治の波紋の一つであるが、ここでは天然の水資源をめぐって、同じ郡の郡司でも、大領の生江東人と少領の阿須波束麻呂がまったく違った立場にあったことが注目される。東人は東大寺への墾田の寄進にかかわり、寄進後もその経営に関与していたらしいが、その用水をつかさどる「水守」宇治知麻呂を「私に」任命していた。彼は先のような水争いで知麻呂が罰を受けたことについて東大寺から責任を追及されたときに、その事実を知らなかったと言いわけしている(寺四一)。
 当時の法律である雑令には、天然の水は「公私共利」であり、誰もがその使用を認められ、また誰も独占してはならないという原則が定められていた。東大寺が寒江沼の水にわざわざ「公私共用の水」と注したことはこの原理がたてまえとしては有効であったことが確かめられる。しかし、このような法的規制のあいまいな天然の水に直接依存する限り、利用をめぐる争いが今後も必然的に生じてくる可能性があった。また沼水利用という点での将来の供給の不安定性を克服する必要があった。溝を造成しての河川潅漑の意義はこのようなところにあったのである。



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