この荘園は先にみたように、天平勝宝元年(七四九)四月の詔書により寺の使や越前国司などによって野地が占定されたが、そのなかでは百姓や京の住人田辺来女などによって活発な開墾活動が展開していた。また国司によって収公され、口分田に班給された寺田もあった。それらは道鏡政権のもとで強制的な没収や交換・買収を通じて東大寺のものとなり、一円化が達成された。
一方では、生江臣東人による広大な開墾地も開かれていたが、それが東大寺に寄進されて道守荘の重要な構成要素になっていた。なお荘域外には、天皇の命令により公的財源を用いて開墾する「勅旨御田(勅旨田)」と称される田地が近辺に設けられており、後述するように、道守荘との間に寒江沼の水の利用をめぐって争いが起きていた。
大まかにみると、先に占定された地は北の方に広がっていたが、そこは天平神護二年の時点でも荒野が多く、東大寺自身による開発はあまり進行していなかったようである。それに対して東南部一帯には田辺来女の墾田が広がっており、南部には百姓の墾田と生江東人の墾田が入りまじっていた。
このように、道守荘の内外には、身分や性格を異にする所有主体の墾田が複雑に入り組んでおり、この荘園が十分に機能を発揮するためには、鯖田国富荘の場合とは少し意味が異なるが、やはり一円化が不可欠であった。そして、実際に仲麻呂没落後にそれは一挙に実現された。そのことについて生江東人の立場を視野に入れつつ、用水問題に注目して述べてみたい。 |