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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      足羽郡道守荘の成り立ち
 目をひとまず足羽郡に移そう。足羽郡のなかの大面積を占める道守荘は、当郡の郡司が重要な役割を果たしているという点で、これまで述べてきた鯖田国富荘と類似する。しかし、鯖田国富荘が純粋な寄進田のみから形成されたのと異なり、道守荘はさまざまの由来をもつ土地が集まって成り立っていた。また、当初から一応まとまりを有していた点も異なる。この荘園については詳細な絵図が残っているが、その説明は第三節に譲ることにする。道守荘は、福井市の足羽川と日野川の合流点の南側に広がっていたが、その比定地を示したのが図91であり、荘園内外の土地の成り立ちを絵図などによって図示したのが図92である。
図91 道守荘の現地比定図

図91 道守荘の現地比定図


図92 道守荘とその周辺の土地景観

図92 道守荘とその周辺の土地景観

 この荘園は先にみたように、天平勝宝元年(七四九)四月の詔書により寺の使や越前国司などによって野地が占定されたが、そのなかでは百姓や京の住人田辺来女などによって活発な開墾活動が展開していた。また国司によって収公され、口分田に班給された寺田もあった。それらは道鏡政権のもとで強制的な没収や交換・買収を通じて東大寺のものとなり、一円化が達成された。
 一方では、生江臣東人による広大な開墾地も開かれていたが、それが東大寺に寄進されて道守荘の重要な構成要素になっていた。なお荘域外には、天皇の命令により公的財源を用いて開墾する「勅旨御田(勅旨田)」と称される田地が近辺に設けられており、後述するように、道守荘との間に寒江沼の水の利用をめぐって争いが起きていた。
 大まかにみると、先に占定された地は北の方に広がっていたが、そこは天平神護二年の時点でも荒野が多く、東大寺自身による開発はあまり進行していなかったようである。それに対して東南部一帯には田辺来女の墾田が広がっており、南部には百姓の墾田と生江東人の墾田が入りまじっていた。
 このように、道守荘の内外には、身分や性格を異にする所有主体の墾田が複雑に入り組んでおり、この荘園が十分に機能を発揮するためには、鯖田国富荘の場合とは少し意味が異なるが、やはり一円化が不可欠であった。そして、実際に仲麻呂没落後にそれは一挙に実現された。そのことについて生江東人の立場を視野に入れつつ、用水問題に注目して述べてみたい。



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