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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      賃租関係と一円化
 寄進は広耳によって一括して行われたが、その後東大寺との間で結ばれる賃租契約では、広耳が間に介在して大きな役割を果たしていた可能性が高い。広耳は寄進後その地に対する諸権利をすべて失ったとはとうてい考えられないのである。その点は次の史料が如実に物語っている。
 広耳が一〇〇町の田を寄進した翌年の正月、広耳自身が前年の地子を納入できない旨を造東大寺司に上申しなければならなかった(寺一二)。すなわち彼の言い分は次のとおりである。寄進は天平宝字元年四月に行われ、閏八月に寺の田として調査・確定された。いま田地を耕作するものは身分を問わず、旧暦の春正月から三月までの間に種子をまいて「競作」するのを常としている。寄進した田についていえば、「競作」の時を過ぎたのちに寄進したものである。また寺の財として確定したのも「競作」よりのちのことである。それゆえ元年分の地子は進上できないので、当年(二年)より地子を進上したい。以上の申し入れに対して、造東大寺司では「申すところ理あり」として、元年分の地子は納入しなくてもよいという決定を下した。この一件は当時の荘園の賃租関係を知るうえで重要なものとしてよく言及される。
 まず注目されるのは、東大寺への地子納入主体は、個々の農民ではなく、坂井郡大領品遅部君広耳であったことである。すなわち、土地の貸借契約は東大寺と広耳との間で行われる形式をとっている。このことから、広耳は寄進後の当初は当地の賃租経営を請負的に行っていたと考えられる。
 次に耳なれない「競作」ということばが、地子納入免除の根拠を理解するうえで重要である。すなわちひとことでいえば、寄進が「競作」ののちであったから地子を納入しなくてもよいという論理である。それでは「競作」とは何であろうか。これもさまざまな見解が出されているが、それによって耕作者が決定されるという事実が重要である(荒木敏夫「八・九世紀の在地社会の構造と人民」『歴史学研究』別冊特集一九七四年度大会報告)。そしてそれはおのずから実際の耕作者が納入する当年の地代(地子)納入額がこのとき決定されたことを示している。同時にこの時期には、出挙による種稲の貸与が行われていたと推定され、それが「競作」の背景をなしていた(坂江渉「土地所有と律令国家」『日本史研究』三三一)。このような種稲の貸与と耕作者の決定と地子額の確定を行うことによって、土地の所有者がその土地の果実としての地子を自分のものとする権利を主張できた。寄進の時期がその前か後かは、地子を東大寺が入手しうるか、広耳が入手しうるかにとって決定的に重要であったのである。
 寄進の次年度からは東大寺がそれらを担当することになったが、競作による賃租関係の維持は散在耕地のもとではやはりうまくゆかず、そのうちに頼みとする旧主の広耳も没してその影響力を期待できなくなって、結局新しい土地に一円化して管理せざるをえなかった。一円化しなければならない理由を、零落して秋の収穫が不便であると述べているのは、先にみたように春の競作が秋の収穫物に対する権利を保証する源となっているのに、それがうまく機能しない状態をいみじくも語っている。



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