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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      散在していた広耳の寄進田
 図90をみれば明らかなように、広耳が寄進した一〇〇町の田は、広く坂井郡一帯に散在していた一方、数か所のまとまりがあることも注意される。とくに西北二条九里あたりに
集中性が認められる。このようなところは、広耳ないしその一族によって開墾された所で
あるかもしれない。
図90 東大寺領荘園と品遅部君広耳寄進墾田の分布

図90 東大寺領荘園と品遅部君広耳寄進墾田の分布

 しかし、郡内に散在する墾田はどのように考えればよいであろうか。当時の郡司層が膨大な私稲を有していたことは、生江東人が桑原荘へ納入した稲にもうかがえる。このような豪族は、自ら所有する稲を農民に貸し付けて私出挙運営を行っていた。たとえば、越前国加賀郡の少領道公勝石が違法に私稲六万束を出挙したかどで、利稲三万束を没収された例がある(『続日本紀』天平宝字五年二月戊午条)。これは突出した例であるので、とくに摘発されて史書に残されたものであるが、『日本霊異記』下二六には高利で稲などを貸し付けていた郡司の妻の話がみえ、豪族による出挙が日常的に行われていたことが推測される。なお『日本霊異記』の編者は、度を超えた高利には批判的であるが、出挙して利をとる行為自体は容認していることが注意される。
 広耳と農民との間にはこのような私出挙が行われ、広耳は債務を負わせた農民から、債務償還を地子納入で果たさせる半ば強制的な賃租の関係を結んでいたことが推測される(増田弘邦「八世紀における私的大土地所有と庄田経営」『前近代史研究』一)。散在する耕地はもともと個々の農民の墾田であったが、出挙の負債によって形式上の所有権は郡司に奪われつつも、実際の耕作は引き続きもとの所有者である農民が行い、地代(地子)が郡司に納入されるようになったと考えられるのである。  ところで、東大寺に寄進された墾田の多くは実際には零落しており、秋の収穫が思うにまかせない状態であったことも重要である。この理由はさまざま考えられるが、先のような半強制的な賃租関係を想定した場合、散在した耕地のもとでは安定的な耕作関係を毎年維持することが難しかったのではなかろうか。そしてその安定化をはかるためにも、広耳は墾田の寄進を思いたったのではないか。その思惑と東大寺のこの地への進出の意図とが結びついて寄進が成立したものと思われる。しかし、寄進によって次に述べるような新たな問題が生じることになった。



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