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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    三 郡司と初期荘園―鯖田国富荘と道守荘―
      鯖田国富荘の成立と一円化
 前項でもふれた十世紀の東大寺の荘園目録には、坂井郡に鯖田荘・国富大荘・国富小荘とよばれる合計一〇〇町余にのぼる東大寺領の荘田が挙げられており(寺六一)、鯖田国富荘と一括してよばれている。この荘園に関しては、奈良時代に越前国司らが作成した二通の文書が残っている。いずれも前欠であるが、だいたいの様子を知るうえでは支障はない。
 この荘園は、坂井郡の大領である品遅部広耳の寄進によって成立した。その寄進した田を調査するために造東大寺司の使が遣わされ、国司がその寄進田の位置を条里にしたがって報告した、いわゆる坪付を記した天平宝字元年(七五七)閏八月十一日付の文書が残っている(寺七)。
 一方、先に第一節で述べた称徳・道鏡政権成立直後に行われた東大寺領荘園の一円化の動きがここ鯖田国富荘でも強力に行われた。その時の文書が天平神護二年(七六六)十月二十一日のものである(寺四三)。
 これら両者を合わせみることによって、一円化する前と後の様子を知ることができる。それを図示したのが図90である。東大寺の言い分は、天平神護二年の文書で述べられているように、海辺の百姓の口分田が内陸遠くにあり、逆に寺田が潮に交わるほどの海辺にあるという両者の不都合を解消しようというのである。ところが、この一円化もやはり政治の影響を直接的に受けている。先に述べたように、東大寺の荘園は、藤原仲麻呂政権のもとでさまざまの圧迫を受けていた。仲麻呂の子である恵美朝臣薩雄が越前国司であった天平宝字五年の班田時に、一円化の申請が出されたようであるが、薩雄は父仲麻呂の命令を受けてそれを認めなかった。そして一円化は仲麻呂政権の崩壊ののちに実現したといういきさつがあったのである。



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