目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      その後の桑原荘
 桑原荘の名は天平宝字二年を最後にして史料からみえなくなる。一方、天平神護二年(七六六)の文書(寺三八)や延暦十五年(七九六)の文書(寺五九)に溝江荘の名がみえる。桑原荘が現在の桑原集落の近くであったとすると、後者の文書に記された溝江荘の位置は、その桑原集落のごく近傍であり、桑原荘が溝江荘と名称を変えた可能性がある(第四章第四節)。延暦十五年の文書は欠損部分が多く意味がとりにくいが、荒木磯万呂らの百姓によってこの荘園の耕作が妨害されていることが坂井郡司に訴えられたことに関して出された文書と考えられる。先にみた天平宝字期の東大寺と百姓たちとの紛争がこの時期にもみられる点が注意される。
 溝江荘は天暦四年(九五〇)の東大寺領荘園の目録で一三三町余りの面積が記されているが(寺六一)、長徳四年(九九八)の目録では「荒廃数多く、熟田はいくばくならず」という状態であった(寺六三)。天暦四年の目録も、記載面積どおりの荘園が存続していたあかしにならないことは、翌年に出された足羽郡庁牒で明らかである(寺六二)。この点はのちにもふれることにする。結局のところ、桑原荘が溝江荘に名前を変えた確証がないのであるが、いずれにせよ、この荘園が遅くとも十世紀までには荒廃に帰していたことは間違いない。



目次へ  前ページへ  次ページへ