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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      舂米
 東大寺荘園から中央へ進上される米は、収入稲の一部を舂いて俵に詰めて水上交通を有効に利用して運搬された。桑原荘からも、経営が一応軌道にのってきた時点で、都への米の進上が計画されたようである。天平勝宝九歳の荘券第三によれば、舂いて進上する米にあてる稲が二六四〇束支出されており、米の量については別紙に記されていることになっている。
 ところが、この記載には訂正がなされていて、「進上」の文字が抹消されており、別紙も「申すべし」とされている。つまり、実際には進上されなかった可能性が高い。しかし支出そのものは認められているので、一応米に舂く作業までは行われ、荘の財産である稲とは別に保管されていたらしい。
 この点で注目されるのは、田使曾乙麻呂が荘園の経営を独断的に行い、造東大寺司の非難をうけ、田使を解任されたとみられることである。事実、天平宝字元年十一月の報告(荘券第四)では彼の名前がみえず、代わりに「勘受収納坂井郡散仕阿刀僧」という者の署名がある。「郡散仕」は第四章第一節でふれた郡雑任の一種であるが、ここでは「勘受収納」という役割が重要である。彼に期待されていたのは、桑原荘の財物などを調査することであったようで、それはおそらく曾乙麻呂が独断経営したあとの実状を調査する必要があったからであろう。またこれとは別に、造東大寺司の使が越前に着く前に、曾乙麻呂がもつ米を接収するようにとの命令が国使である安都雄足に下されている。この米がおそらく進上すべくしてされなかった舂米ではなかろうか。
 舂米の実際のようすは、天平宝字元年十二月二十三日付「越前国使等解」(寺一一)に示されている。それによれば、桑原荘に当年収納された稲は、秋に災害にみまわれて品質も悪く、一束を舂いても普通は五升になるのに三、四升にしかならない。それでは舂米にするにも出挙にも不便であり、労働力への給付や物を買う直稲として使えるにすぎない、という現地の報告があり、造東大寺司の判断を乞いたいといっている。それに対して造東大寺司は、かの地の事情を当方ではよく把握していないので、現地の責任者が利害を考えて行えと命じている。
 このことから、舂米にするか否かは、形式的には造東大寺司の判断によったが、実際には現地の状況に通じている国使以下の責任者に任されていたことがわかる。なお、舂いて米にしたり出挙して種籾にするという、いわば稲の使用価値としての側面があまり期待できないとき、稲を束のままで交換手段として用いることが行われたらしい。この点、当時の稲の利用のされ方がわかり興味深い。



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