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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      溝の開削
写真83 大和国益田池樋管(幅114cm 長さ565cm)

写真83 大和国益田池樋管(幅114cm 長さ565cm)

 先に述べた田の荒廃の原因として用水問題があった。天平宝字元年十一月十二日付「越前国使等解」(寺九)は、桑原荘で一本の溝を拡幅し、新たに溝を二本通そうとする時の計画書であり、そのためにつぶされる田について、寺から国府へ許可申請してほしい旨を上申した文書である。
 溝の技術的問題や開削の労働力についてはのちに述べるとして、ここで注目されるのは、この計画を立てねばならなかった理由として、もとからあった溝の盛土部分が流失して、溝の通水能力が大幅に損なわれて田が荒れ、それによって百姓が賃租に応じないという事情があったことである。事実、先にみたように逃亡する百姓もおり、賃租百姓の動向が荘園の興廃を決定づけていたといっても過言ではない。賃租は不安定な一年ごとの契約関係であるから、それのみでは荘園の経営はいかに脆弱であったかを物語っている。
 さて、先の荘券第三・第四の文書にみえる荒廃田九町七段・四町九段は、かりに文書の記載を事実として信用するとすれば、大伴麻呂が開いた田とそれに隣接する部分で生じたと推測される。それは修理の対象となっている「宇弖美溝」とよばれている、おそらくは大伴麻呂が開削した古い溝を用いての開墾部分ではなかろうか。それに依存している限り耕地の拡大は望めないわけで、その溝を修理するとともに、新たにより大規模な幹線水路の開削が計画されねばならない必然性があった。このように、個別貴族の開発には限界があり、それを打ち破ろうとする国家的大規模開発のあり方に注目しなければならない(原秀三郎「八世紀における開発について」『日本史研究』六一)。
 そして、そこでは樋が多数用いられていることも注意される。樋はすでに指摘されているように、既存の溝と交差するとき、一方をつぶしてしまわないためにぜひとも必要なものであった(原前掲論文、亀田隆之「古代の樋に関する覚書」『古代史論集』中)。桑原荘でも溝の新設にともなう樋の大量の購入がなされている。溝の新設にともなう開削は、近辺の百姓その他の口分田・墾田保有者との間に利害の対立を生じる場合があり、それが中央の政治動向と連動していたことを先にみたが、このような状況のなかで樋はその対立を技術的に解消するための一手段でもあった。
 表38は越前国東大寺領荘園関係の史料で樋の規模がわかるものを一覧表にしたものであるが、いずれの樋も大規模なものである。とくに桑原荘で溝開削にかかわって新たに購入するもののなかにはすこぶる長大なものが多く、また道守・鴫野荘でも溝の開削計画をともなう新造のものは、ほかより幅の広いものが多いことがわかる。いずれにしてもこのような巨大な樋の購入あるいは新造は、中央の技術導入による開発と密接に関係することを示しているといえよう。  溝と巨大な樋とを組み合わせた潅漑技術は、『日本書紀』孝徳紀にみえる倭漢荒田井比羅夫や同書の斉明紀にみえる「水工」、『新撰姓氏録』の垂水公、巨勢田朝臣など、七世紀の技術者伝承とともに語られているように、当時の国家の先進的技術であった。このような先進技術の地方社会への導入は、八世紀には中央国家権力につながる大伴麻呂や生江東人、さらには東大寺にしてはじめて可能であったのである。

表38 越前国東大寺領荘園における樋の規模

表38 越前国東大寺領荘園における樋の規模



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