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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      開墾・荒廃と賃租
 さて、桑原荘の開墾の進展と一方での荒廃田の拡大、そのようななかで行われた賃租のようすを年を追ってみてみよう。なお、賃租とは一年を限って行う土地の貸借関係で、土地を借りた者は貸主に貸借料を支払うが、耕作前の春に支払う場合を「賃」、収穫後の秋に支払う場合は「租」という。ここでいう租は国家への土地税である田租とは別のものであり、地子ともいった。古代では賃租で耕地を貸し出すことを「売」、借りることを「買」といい、地代を価直(直)という場合も多い。
 賃租に出されたのは、当然のことであるがその年の春までに耕作可能な状態になっていた田である。しかし、のちにみるように、その年の内に田を借りていた農民が逃亡するなどの理由で荒廃してしまうこともあり、その場合は現地の経営の責任者である田使が賃租価直を代納しなければならなかった。逆にいえば、田使の請負的・独断的な経営を許す構造になっていたともいえる。賃租関係の泣き所はこのようなところに現われていたのである。

表37 桑原荘の開墾・荒廃田と賃租田の面積

表37 桑原荘の開墾・荒廃田と賃租田の面積

 桑原荘券四通の開墾田・荒廃田、賃租に出された田のそれぞれの面積を表にしたのが表37であり、開墾と荒廃の過程を概念的に図示したのが図88である(この図は実際の荘園の景観とはまったく無関係である)。これら図表を見ながら開墾・荒廃と賃租の関係を説明してみよう。
 先に述べたように、当地は天平勝宝六年には実質的に東大寺の領有に帰していたが、荘券第一によれば、その年(および若干は次の年にずれこんで)二三町が開墾された。その費用は一町につき一〇〇束の功稲(労働力への支払い分)が東大寺から支出された。この年賃租に出されたのは、大伴麻呂が以前に開いた九町分であり、その直稲は一町につき八〇束であった。
図88 桑原荘の開墾・荒廃課程

図88 桑原荘の開墾・荒廃課程

 荘券第二によれば、天平勝宝七歳には、大伴麻呂が開いた九町に新しく東大寺が開いた二三町を加えて、三二町が賃租に出された。その価直は一二町は町別八〇束、残りの二〇町は町別六〇束で、地味のよしあしによって直稲の額が異なっていたことがわかる。  荘券第三によれば、天平勝宝八歳は若干複雑である。これまでに開墾された三二町に加えてこの年一〇町が開かれたが、賃租に出されたのは昨年までに開墾された三二町で、そのなかには九町七段(うち九町は大伴麻呂が開墾した田のすべてである)の荒廃分が含まれていた。つまり帳簿のうえでは、当年に荒廃した田の賃租価直も収入として記載されていた。このことは、当時の賃租が田使の請負で行われ、荒廃した部分が生じた場合、その価直は請負者である田使がたてかえて負担する定めになっていたと考えれば説明がつく。なお、当年に開墾された分は賃租に出されないことになるが、それは自然に理解できる。  荘券第四によれば、天平勝宝九歳(天平宝字元年)に賃租に出されたのは、昨年までに開かれた田四二町から昨年に荒廃した九町七段を差し引いた三二町三段であった。この年新たに四町九段が開かれたが、荒廃田も新たに四町九段生じた。その荒廃したところは以前に開かれた部分であったらしいが、賃租で貸した農民が逃亡して耕作しなかったことによって生じたものである。この分の賃租の価直は田使の曾乙麻呂がたてかえて納入した。ここでは先に想定したことが史料上に明記されているのである。  ところで、これまで述べてきたのは文書の文字面の解釈であり、よく考えてみると、一〇町を開墾して九町七段が荒廃したり、四町九段を開墾して四町九段の荒廃が生じたりというように、開墾と荒廃の面積が等しいかきわめて近似している点に不自然さを感じないわけにはいかない。また、さまざまの加筆訂正が行われているが、それは賃租価直にはまったく及んでおらず、当初の価直の収入記載を変更していない点も注意を要する。すなわち収入額を変更せずに面積上のつじつまを合わせた粉飾決算の可能性を否定できないが、とりあえず文書上の記載に従って解釈すると以上のようになる。



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