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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      経営の年次報告書
 桑原荘で特徴的なのは、先にも述べたように、東大寺が大伴麻呂から正式に買得したのち、天平勝宝七歳から同九歳(天平宝字元年)までの日付をもつ四通の収支決算書(寺三・四・六・八)が残っていることである。これらは後世「桑原荘券」の名称が与えられたが、当時は「産業帳」とよばれたらしい(寺一〇)。これによって、帳簿に現われている限りではあるが、荘園経営の実態およびその変化を知ることができる。桑原荘を取り上げたのはこの理由からである。まずその報告書の作成者から経営の責任者について述べておこう。
 桑原荘の経営報告の総括責任者は、以前に造東大寺司に勤務していたことのある越前国史生安都宿雄足であった(第二節)。そして彼のもとで、足羽郡大領生江臣東人・田使曾連乙(弟)麻呂の二人が経営に参画するということになっていた。ところが隣の郡の郡司である生江東人は、多額の資金(稲)を出してはいるが、実際の経営に参画した形跡はなく、桑原荘の経営はもっぱら田使曾乙麻呂がとりしきっていたようである。事実、天平勝宝八歳二月一日付・同九歳二月一日付の二通の年次報告書には田使曾乙麻呂の署名しかない。しかし、東大寺側はこのような曾乙麻呂の独断専行をきらっており、その二通は一度つき返された。
 一方、天平勝宝九歳二月一日付および天平宝字元年(七五七)十一月十二日付の報告書には多数の抹消や朱筆の書入れがある。この抹消や書入れは、越前国段階で行われたものか、中央の造東大寺司の役人が行ったものか、意見が分かれるが、開墾と荒廃の認識にかかわる重要な記載の変更が行われており、経営をめぐる矛盾がはしなくも露呈されている。



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