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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    二 直接経営をめざした初期荘園―桑原荘―
      桑原荘の成立
 坂井郡にあった桑原荘は、これまでに述べてきた野地の占定によって成立した荘園ではなく、貴族の墾田地を買収して成立したものである。しかし、造東大寺司が田使を送りこみ、直接的に大規模な開墾を行ったという意味では、初期荘園の典型的なあり方を示している。そしてこの桑原荘に関しては連続した四通の年次収支報告書が残っており、年を追って荘園の様子がどう変わったかを知ることができるという、ほかに例をみない特徴をもっている。またそれらと関連する重要な文書もあり、合わせみることによって、経営の背後にある問題点を指摘できる。このような理由で、越前の初期荘園の代表例として桑原荘を取り上げてみたい。まず最初にその買得の経緯にふれ、次にこの荘園の四回分の収支報告を中心にみることにより、当時の荘園の経営の一端にふれることにする。
写真82 金津町桑原付近

写真82 金津町桑原付近

 なお、桑原荘の位置は、条里の坪付がないので正確な位置は不明であるが、現在の桑原の集落(坂井郡金津町桑原)の近くと考えられる。桑原の地名そのものは「桑原駅家」の所在地からきたものかもしれないが、その近くに推定して大きな誤りはないであろう。  この荘園のもとになった墾田地の所有者は、都に住む大伴宿麻呂という貴族であった。彼は天平六年(七三四)正月に正六位上から外従五位下に昇り、天平十八年四月に従五位下となり、天平勝宝六年(七五四)正月に従四位下に至った。この間に右京職の次官を務めている。  彼は墾田地を未開部分も含めて東大寺に売却したが、それを国司が承認した天平勝宝七歳三月九日付の文書が残っている(寺二)。しかし、実際の売却はその前年の六年中に行われたらしい。大伴麻呂が東大寺に売却した墾田地は一〇〇町であったが、実際の売却時に開墾されていたのは九町にすぎず、正式に売却が認められるまでに、二三町が東大寺の手により開墾されていた。つまり、国司の承認の時点では全体で三二町ばかりが開墾されており、売却の価格は一八〇貫文であった。



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