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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      政権による揺れ動き
 しかし、以上の争いでもう一つの要素が大きく働いていることを見落としてはならない。これまでにも強調してきた政治の影響である。天平宝字年間は藤原仲麻呂の専権期であるが、この時期、仲麻呂派の国司が東大寺と対立していた入麻呂の主張をたやすく認めている。別鷹山の墾田についても、寺に先占権があるうえに対価を支払って買い取ったにもかかわらず、この時期は寺のものと公認されなかったのは、当時の仲麻呂の寺田抑圧政策と無関係ではないであろう。ただ、第四章第四節でも述べられているように、この時期の混乱の原因としては、条里呼称法導入に伴う技術的問題があったことを無視できないが、のちの状況などから逆に考えると、中央政権との関係も否定できないように思われる。
写真81 「越前国司解」(寺44)

写真81 「越前国司解」(寺44)

 なお、仲麻呂政権下では次のような事件もあった。天平宝字五年に、東大寺が溝を開くにあたって、国司の許可を得ようとしたところ、許可されなかったばかりでなく、郡司が百姓と組んで寺田使に乱暴するという事件まで起こっている(写真81)。これも藤原仲麻呂政権の同様の政策が根底にあることはいうまでもない。
 このように、藤原仲麻呂政権の時期は東大寺荘園の受難の時代であった。ところが天平宝字八年に仲麻呂が乱を起こして滅び、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡が台頭してくるとともに政治的状況は一変し、東大寺はこれを契機に寺田の回復運動と一円化を強力に推し進めた。長大な「越前国司解」(寺四四)が作成されたのは、称徳天皇と道鏡が政権をとった約二年後のことである。その内容の一端はすでにふれたが、要するにこの文書は、これまで不正な状態におかれていた寺地を回復し、あわせて口分田・墾田との入組み状態を清算して、一円化された荘園をうちたてようという東大寺の要求が政府に認められ、そのための調査を国司が行った報告書であった。このような東大寺の利益のために、百姓の口分田は遠くへ割替えられ、墾田は買収されたりした。
 このとき田地とともに用水をめぐる東大寺の不利な立場も清算された。すなわち東大寺と百姓との用水をめぐる争いで、以前に認められていた百姓の用水権が否定されたことを見落としてはならない(寺三五)。田地の場合といい、用水の場合といい、農民たちの目からみれば、東大寺と対立した藤原仲麻呂とその権力を現地で体現した国司や郡司は、農民の立場を擁護してくれるものに映ったのではなかろうか。



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