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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      開墾の権利をめぐる争い
 当時の社会で、土地とくに未開地に対する権利を主張する場合、先占すなわち先にその地を占めて開墾用地として公に認められていたこと、および開墾の労働を実際に行っていたこと(自分が働かない場合はその費用を出していたこと)が重視された。そのことを示す事例を二つ挙げて、争いの経過のあらましを述べておこう。
 まず一つめの事例として、天平神護二年の「越前国司解」(寺四四)は、丹生郡椿原荘で起こった次のような争いを記している。丹生郡岡本郷の戸主佐味公入麻呂は、三世一身法下の天平三年に越前国司から開墾許可を受けたが、開墾しないでいた。一八年後の天平勝宝元年、その土地は先に述べたように東大寺の墾田地として占定され、東大寺の手によって開墾されていった。
 入麻呂は訴訟を起こしてその土地に対する自分の権利を主張し、天平宝字二年(七五八)に国司は入麻呂の主張を認めた。一方、翌年造東大寺司から派遣された使は、荒野を開墾して田にしたのは東大寺であり、他人に開墾の権利がないと主張した。入麻呂はそれならばと、寺の開墾費用(労働力への支払い分)の稲一〇二二束を進上しようと申し出た。
 ところがこの稲はついに支払われないで、そうこうするうちに入麻呂はその係争地を国分寺に売却してしまい、田図や田籍でもそのことが追認されてしまった。いま(天平神護二年)国司が調査したところ、入麻呂の側に不正があり、以前の国司の判断は誤りであるので、東大寺田として田図・田籍を改正する、と報告されている。
 次の事例は足羽郡栗川荘での争いである。足羽郡上家郷戸主別鷹山が言うには、天平勝宝元年八月に、寺の占地後にもかかわらず、郡司は鷹山の父に墾田を許可し、天平宝字二年には国司も郡司の許可にもとづいて同じく許可した。これに対して、東大寺の使は、代価をあてて鷹山から墾田地を買い取った。しかし、天平宝字四年の政府の使者や翌年の班田を行う国司などは、鷹山の名前で登記した。いま(天平神護二年)、国司が調査した図や証文類では、寺の土地を占めたほうが先であり、さらに寺は代価まで支払っている。にもかかわらず鷹山の名前を登記してあるのは誤りである。このような自らの非を認めた鷹山の伏弁状(承伏状)を足羽郡司が作成している(寺三四)。



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