目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      野地の占定による荘園のはじまり
 東大寺の荘園はその成立の当初より、律令国家の政治と密接不可分の関係にあった。史料に現われる東大寺の越前国での墾田開発の最初は、墾田永年私財法発布の翌年、天平十六年であるが(寺三五)、本格的に進出し始めたのは、天平二十一年(天平感宝元年、天平勝宝元年、七四九)である。この年、聖武天皇に代わって孝謙天皇が即位するが、その少し前、陸奥国から黄金が進上され、天皇はじめ政府首脳は狂喜した。この時期、東大寺の大仏はほぼ完成していたが、最後の段階で塗金に用いる黄金が不足し、政府は苦慮していた。まさにその時に献上がなされたのである。聖武天皇は東大寺まで行幸し、黄金出現を慶ぶとともに、さまざまな施策を表明した宣命を発した。宣命の内容は多岐にわたる長いものであるが、そこで表明された個々の施策は個別法令で実行されていった。その宣命のなかに「寺々に墾田地許し奉り」という文言があり、それにもとづいて七月には、東大寺に四〇〇〇町の墾田地の限度額が示されている。なお、その少し前の閏五月にも東大寺には墾田地一〇〇町が施入されている。
 これが出発点となって東大寺の荘園の占定が大規模に行われた。この年五月、東大寺のための墾田地を占定する使である「野占使」として、寺の使の僧平栄・造東大寺司史生生江臣東人・越前国医師六人部東人・足羽郡司擬主帳槻本公老らが派遣されている(寺三四)。また閏五月四日には、越前国司の守粟田朝臣奈勢麻呂・掾大伴宿潔足らが、四月一日の詔書に従って東大寺の田地を占定している(寺四四)。
 以上のような経過から知られるように、東大寺領の荘園は時の政府の大事業である東大寺建立・大仏造立と深く関わっており、それを離れては考えられない。このことは天皇の詔が契機となり、地方行政官である国司や郡司が開墾予定の未墾地などの占定に重要な役割を果たしていたことに如実に示されているのである。もちろん、荘園のすべてがこの時点で成立したのではなく、以後の寄進や買得などによって成立したものもあるが、それらの成立のあり方も、のちに個別の荘園に即して詳しくみるように、やはり律令国家の関与が大なり小なり認められる。
 一方、このような野地の占定は、百姓との間にさまざまのトラブルを生じた。そのいくつかの例をみることによって、当時の墾田地に対する権利がどのようにして成り立っていたのかがわかる。先に墾田所有が政治的・経済的な力に左右されることを強調したが、それはたんに法令をみているだけではわからない。この点を生々しく語ってくれる史料の世界に降り立ってみよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ