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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      橘諸兄政権と貴族墾田地
 墾田法の画期となる墾田永年私財法は、聖武天皇のもとで橘諸兄が左大臣として政権を担当していた時期に発布されたが、橘諸兄政権のもとで越前国司となった者には、大伴駿河麻呂・大伴池主・大伴潔足などの大伴氏の人びとが多くみられる。このことと関係して注目されるのは、かの有名な大伴家持が越前国加賀郡(のち加賀国)に一〇〇余町の墾田を所有しており、のちに没収されて勧学田となったことである(編三〇九・五八四)。また二項でみるように、坂井郡にあった東大寺領桑原荘の前身は大伴麻呂の一〇〇町の墾田用地であった。このような大伴氏の越前国における開墾活動は、橘諸兄政権下で大伴氏が多数国司となっていたことと深い関係があったと考えられる。
写真80 「越中国礪波郡石粟村官施入田地図」

写真80 「越中国礪波郡石粟村官施入田地図」

 なお、隣の越中国では、大伴家持が天平十八年から天平勝宝三年(七五一)まで国守として赴任していたことが想起される。一方、橘諸兄の子奈良麻呂は、越中国砺波郡に墾田地約一〇〇町を有していたが、奈良麻呂の変で没収されて、東大寺領の石粟荘になった(写真80)。中央貴族の開墾活動が、時の政権と結びつきの深い国司を媒介にして行われていたことを想定させる例としてつけ加えておこう。
 さて、越前国にかえって、いま一つ注目されるのは、加賀郡幡生荘が天平勝宝七歳に「橘夫人」より東大寺に施入されていたことである(寺六六)。この「橘夫人」は諸兄の姪で聖武天皇の夫人となっていた古那可智をさすと考えられている。彼女の墾田地所有も時の政権と関係することはいうまでもない。
 第四章第一節で述べたように、奈良時代の越前国司の補任状況に中央政界の変動が直接反映していたが、同様のことは隣の越中についてもいえる(『富山県史』通史編一)。東大寺の荘園が越前や越中などの北陸地域に多く設定されたのは、大面積の開発が可能であり、水運に便利であるという地理的要因もあるが、やはり第一には、時の政権と密接に結びつく政治的要因を挙げねばならないであろう。  ところで、橘諸兄政権のもとで開始された大事業として東大寺建立と大仏造立があったことはよく知られているとおりであるが、東大寺領荘園はまさにその経済的基盤として大々的に設定されたのである。



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