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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      三世一身法と墾田永年私財法
 三世一身法が他の墾田関係諸法令に比べて特徴があるのは、墾田の所有期限を潅漑設備の造成と結びつけている点である。すなわち、新たに溝・池などの潅漑設備を造成して開墾した墾田は、その功績を認めて三世(子・孫・曾孫)に伝えることを許し、旧来の溝・池を利用した開墾は、開墾した一代限りの所有を認めるというものである。
 三世一身法下の開墾の実態は明らかでないが、のちにふれる天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)に、国司が百姓に開墾すべき地を「判給」したことがみえ、国司の開墾許可の文書が発給されたことが推定される。
 三世一身法は、民間の活力に期待して開墾を奨励する法であったが、その歴史的意義については、限定的であれ墾田の相続を認める点で、墾田に対する開墾者の権利を法的に明確にするという側面と、収公を通じて墾田への国家的規制を強化するという側面の両側面があることに注意しなければならない。
 三世一身法の所有期限の規定は、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法で撤廃された。従来はこの法をもって律令制の「公地公民制」が崩壊に向かったと考えられてきたが、最近では律令の墾田法規の不備がこれによって克服されたと評価されるようになってきた。たしかに、これによって墾田は耕作を続けている限り没収されることはなくなったが、無制限に開墾してよいというわけでなく、位階によってその限度額が定められていたのである(ただしこの制限は九世紀初期までには撤廃されていた)。
 また、開墾は国司に届け出て許可を受ける必要があったし、墾田は口分田と同じ輸租田として田租を国家に納めねばならなかったことも忘れてはならない。ひとことでいえば、墾田開発は当時の国家、その現地の最高行政官である国司の権力が重要な役割を果たしていたのである。のちに述べるように、初期荘園の設定やその後の盛衰に中央政界の直接的な影響がうかがえるが、その理由の一つがここにあることを強調しておきたい。  しかし、この法令によって墾田所有者の法的権利が強固になったことも否定できず、各層の開墾への熱意を刺激したことはまちがいない。一般農民にいたるまで自らの力と財産をつぎこんで零細ながら開墾が行われた。ところが、重要なことは、政治力・財力にまさる階層が最終的に開墾の成果をわがものにする有利な位置にいたことである。この点はたんに想像ではなく、具体的に史料から読み取れるのである。



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