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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第一節 初期荘園の成立と経営
    一 荘園の成立と奈良時代の政治
      開墾の進展と律令国家
 農耕社会の成立によって、人間の土地に対する積極的な働きかけがはじまるが、階級社会に移行してゆくとともに、他人の労働に依存して大規模な開墾・耕作を行う者が現われてきた。すでに律令制以前に有力者たちが農民に土地を貸し与えて一年ごとに地代を納めさせることが行われていたことが史料にみえる。これはのちの初期荘園にもみられる「賃租」とよばれる経営方式である(賃租についてはのちに詳述する)。もちろん、一方には不安定ながら自分の労働で耕作を行う人びとも存在したであろうが、大土地所有者に圧迫されるようになっていったと思われる。
 律令国家は、このような大土地所有の進展による社会矛盾を、進んだ中国の土地制度をまねることによって解決しようとした。班田収授法がそれであり、全国の人民に一定の田地を分け与え、田租を徴収し、死亡後に国家に返させるしくみをいう。一方では、特権的な貴族官人や国司・郡司たちには位階や職務にともなう広い土地が給付されるという制度があった。しかし、それらの規定はすぐに耕作可能な既墾田を対象としており、新たに開墾した耕地の取扱いについては、国司の在任中のそれを除いて、具体的な規定は日本の律令には存在しなかったと考えられる。  その間隙をぬって有力者が政治的・経済的な力を用いて広大な土地を占めるということが相変わらずあとを絶たなかった。和銅四年(七一一)には、開墾に際して国司・太政官に届け出ることが義務づけられたが、むしろそれによって貴族や豪族の墾田開発がより活発化したと考えられる。
 しかし、このような状況が進行し、人口の自然増ともあいまって、百姓の耕作地や潅漑設備が十分でない状況が政府によって認識され、それらについて対策が講じられねばならなかった。その最初として、養老六年(七二二)の百万町歩開墾計画がよく引き合いに出されるが、これは墾田一般の規定というより雑穀栽培奨励を中心とした救荒対策とみる見解もある。本格的な墾田所有に関する規定としては、その翌年に出された三世一身法を挙げるべきであろう。



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