目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      私貿易の禁止と民間交易の実態
写真77 平城京跡出土の木簡「渤海」「交易」

写真77 平城京跡出土の木簡「渤海」「交易」

 先に渤海使との私的な交流を律令国家が禁止していたことを簡単に指摘したが、その大きなねらいは、民間での貿易を禁止し国家が貿易を独占することであり、律令には私貿易を禁止する規定がみえる。関市令には、官司より先に外国人と交易することを禁止し、その交易品の処分に関することおよび国外持出禁止の物品に関する規定がなされていた。さらに、但馬国に来航した渤海使に対して出された天長五年正月二日付「太政官符」(『類聚三代格』)には、
一、応に交関を禁ずべき事
右、蕃客の齎す物を私に交関するは法に恒科有り。而るに此の間の人、必ず遠物を愛で、争いて以って貿易す。宜しく厳しく禁制を加え、更に然らしむること莫るべし。若しこれに違えば、百姓は決杖一百、王臣家、人を遣わして買わば、使者を禁じて言上し、国司阿容し及び自ら買わば、殊に重科に処し、違犯すること得ざれ。
とあり、私貿易を厳禁しているが、これは渤海使が来航した縁海国において、「此の間」(民間)の人が「争いて以て貿易す」といわれているように私貿易が盛んに行われていたことと、「百姓」(一般公民)や「王臣家」から派遣された使および国司が私貿易に加わっていたことによるものである。「雑律」の逸文には「官司、未だ交易せざる前、私に蕃人とともに交易するは、盗に准じて論ぜよ。罪は徒三年に止どめよ」とあり、外国人と私的に交易した場合の罪の規定がなされていたことが知られる。日本の律令には私的に外国使節と交易することは厳しく禁止されていたのである。
 すなわち日本国内では外国人と一般の公民との交流は制限されているのが建前であり、原則として松原や能登の客館や縁海国の「便処」などでの渤海使との私的な交渉は制限されたと思われるが、実際は但馬国に出された天長五年の「太政官符」にみえるように私的な交易は盛んであり、越前など北陸道諸国でも同様に私貿易が頻繁に行われていたことが想定される。なお、その際に交易の代価となったのは繊維製品と思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ