目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      「客館」の特質
 渤海使と越前国というと「松原客館」が連想されるが、まず具体的に松原客館を検討する前に、客館のもつ一般的な特徴を示すことにする。外国使節を宿泊させる「客館」(館)の初見は『日本書紀』継体天皇六年十二月条にみえる「難波館」で、寛文九年(一六六九)の刊本には「館」に「ムロツミ」なる和訓が付けられている。また、鈴鹿氏所蔵中臣連重本によれば、『日本書紀』欽明天皇二十二年是歳条にみえる難波大郡の「館舎」を「ムロツミ」としている。さらに『和名抄』『類聚名義抄』でも「館」をムロツミと訓んでいるので、遅くとも平安時代には外国使節を宿泊させる「(客)館」を「ムロツミ」とよんでいたことが知られ、これは奈良時代以前にもさかのぼると推定される。
 「ムロツミ」の語義に関して注目されるのは、栗原薫の見解である。すなわち、「ムロツミ」のうち「ムロ」は大和の御諸山を「みもろやま」とも「みむろやま」とも言うように、「もろ」と相通じ、「室」つまり外とは隔絶された別の世界をいい、同様に神がましまして他の空間と異なる所を「みもろ」といったという。また紀伊国牟婁郡の「牟婁」や日向国諸県郡の「諸」のように、「むろ(もろ)」には辺境の地ですでに開化された土地とは異なる特別地域の意味もあった。人の家に勝手に入っていけないように、神域や辺境の地もみだりに入ってはならない土地、勝手に入ることのできない場所であったという。そして「つ」は「之」の意味、「み」は「見」で司る、支配するの意味があり、「むろ」に辺境の地の意味を採用すると、あわせて辺境を司ること、すなわち日本を中心に置けば、外国は辺境となるので、「ムロツミ」とは、外国より渡来した使臣の役所・建物を意味するという(栗原薫「『もろこし』と『から』の名について」『日本上古史研究』七―三)。
 栗原の説に従えば、「ムロツミ」なる和訓からうかがわれる「(客)館」の特性として、みだりに入ってはならない土地、勝手に入ることのできない場所、その空間の密閉性とほかとの隔絶性が指摘できる。それは『日本書紀』の「館」の用例や先に述べた養老令や『延喜式』にみえる外国使節に対する応対の規定、とくに客館に関する規定からもうかがえる。たとえば、公式令によれば「蕃人」が「帰化」した際に「館」(客館)に安置し供給を行う場合には、「館」にはいった「蕃人」はみだりに往来することはできなかったとある。また客館の管理に関して『延喜式』民部下によれば、大宰府鴻臚館には「守客館」という「客館」を守る官人がいた。平安京鴻臚館の場合、同左右京職によれば、左右京職が兵士を率いて警備にあたった。さらに京職は鴻臚館内の清掃を義務づけられていた。
 松原客館の場合は詳しい規定はみえないが、「蕃客」 を宿泊させる機能に加えて、一般人とは隔離された閉鎖的な空間として管理され、しかも後述するように気比神宮の宮司が客館の警備・清掃などにあたっていたことが想定される。



目次へ  前ページへ  次ページへ