目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      松原客館の管理と創設時期
 さて一般に「松原客館」といわれているが、史料に「松原客館」とみえるのは、意外にも『延喜式』雑式に「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」とあるのが唯一で、そのほかの史書には「松原客館」はなく、みえるのは「松原駅館」に渤海使を安置した記事である。
 『扶桑略記』延喜十九年(九一九)には来航した渤海使に関して次のような記事がみえる。十一月十八日、大納言藤原道明は、若狭守の某尹衡より伝えてきた渤海使の来航のことを、蔵人藤原尹文から醍醐天皇に奏上させた。二十一日には、渤海使の「牒状」には「丹生浦の海中に当たりて浮き居する」とあるが、着岸したとの記載がなく、また「牒状」のなかに、渤海使の人数や来航の事実を載せるが、いまだ子細がわからないので、蔵人の良峰仲連に若狭国の「解文」を宇多院に奉覧させた。二十五日、右大臣藤原時平は醍醐天皇に、渤海使を若狭国から遷して越前国に安置すべきことなどを奏上した。さらに十二月二十四日に、時平は左中弁藤原邦基を通じて、「越前国松原駅館」に遷し送った渤海使一〇五人と随身の雜物などに関する若狭国の解文を天皇に奏上させた。渤海使の「客状」は「松原駅館に遷し送られたが、門戸を閉ざし、担当の官人はおらず、ましてや薪炭の準備もまったくない」と窮状を訴えてきた。これを聞いて天皇は、「切に越前国を責め、急ぎ安置・供給させよ」と蔵人を通じてこのことを大臣に仰せさせた。そこで右大臣は越前掾某維明を便宜的に「蕃客行事の国司」となすべきことを、書状で越前国守の某延年に伝えたとある。このように若狭国丹生浦に来航した渤海使一〇五人は越前国の「松原駅館」に移されたものの、設備面で不満があったことが知られる。またこの時の掌客使の一人であった大江朝綱がつくった「裴使主(渤海大使裴)、松原に到る後、予、鴻臚の南門に別れに臨む口号を読み、追って答和せらるの什に和し奉る」という題の漢詩(『扶桑集』)にみえる「松原」は、越前国の松原駅館(客館)と思われ、帰国時にも利用したことがわかる。
 有名な松原客館の様子を示す史料は、思いのほか少なく以上である。では、松原客館の創設と『延喜式』の気比神宮司による管理規定がいつまでさかのぼるのだろうか。この点に関しては『続日本紀』宝亀七年(七七六)九月十六日条に「始めて越前国気比神宮司を置く、従八位の官に准ず」とあるので、『延喜式』の規定は気比神宮司が置かれたこの時点以降である。また松原客館と並び称される能登客館に関して、『日本後紀』延暦二十三年(八〇四)六月二十七日条によれば、このころ、渤海国使が能登国に来航することが多いが、宿泊に不便があってはならないので、早く客院を建設しなさい、という勅命がでていることから、同時期に松原客館の設置を考える説もある。しかし松原客館を造れという法令の存在はみられないし、能登の客館の建設に関しても、その後の史料にみえず、その完成自体を疑問視する説もあり(浅香年木「古代の能登国気多神社とその縁起」『寺家遺跡発掘調査報告』二)、九世紀初頭に松原客館が造られたという説には問題がある。ただし渤海使が北陸道に来航することが増え、帰国する際には能登国の福良津から渡航することが定例化する九世紀後半には、松原客館が機能していた可能性は高い。



目次へ  前ページへ  次ページへ