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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      渤海使への供給と地元の負担
 まず、滞在する渤海使への食料の支給に関して述べる。『延喜式』主税上には「渤海客の食法」が規定されており、一日に大使・副使は稲を各五束、判官・録事は各四束、史生・訳語・天文生は各三束五把、首領・工は各二束五把を支給する規定になっていた。これをたとえば、先に示した咸和十一年の「中台省牒案」にみえる一行のメンバー構成、すなわち使頭(大使)一人、副使一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人で計算すると、一日あたり二八〇束が支給されたことになる。先に述べたように越前国に来航した場合は約三か月(九〇日)ほど滞在しているので、単純に計算すれば二万五二〇〇束の負担となる。
写真76 『延喜式』大蔵省

写真76 『延喜式』大蔵省

 また、入京させず来航地の但馬国から帰国させた天長五年の場合、恒例の食法を半減させ、一日あたり大使・副使各二束五把、判官・録事各二束、史生・訳語・医師・天文生各一束五把、首領以下各一束三把を白米にして支給することを定めている(『類聚三代格』同年正月二日太政官符)。これにより束・把数が若干異なる可能性はあるが、『延喜式』主税上の「渤海客の食法」は遅くとも天長五年にさかのぼると考えられる。したがって、先と同様に咸和十一年の中台省牒にみえる一行のメンバー構成で計算すれば、一日あたり一四三束四把(もし医師を一人加え、梢工を一人減らせば一四三束六把)となる。この時は天長四年十二月二十九日に但馬国に来航し、少なくとも天長五年四月二十九日まで滞在していたことがわかるので、約五か月、約一五〇日の滞在となる。そうすると計算上は二万一五一〇束が支給されたことになる。三か月の滞在としても一万二九〇六束の負担となる。このように渤海使が来航した国は入京するにしろ、放還するにしろ、地元での負担が多かったため、弘仁五年の場合(17)のように渤海使の供給に際して(賊乱のためという理由も付随したが)出雲国の田租が免じられたこともあった。
 これ以外にも貞観三年正月二十日に出雲国に来航した渤海使一〇五人の場合、五月二十一日に、国書の異例と連日の日照りにより農事の妨げになるという理由で入京させず、そのかわりとして現地出雲国の絹一四五疋・綿一二二五屯を渤海使一〇五人に賜っている。通常、入京した場合には、『延喜式』大蔵省によれば、渤海王に絹三〇疋・三〇疋・絲二〇〇・綿三〇〇屯、大使に絹一〇疋・二〇疋・絲五〇・綿一〇〇屯、副使に二〇疋・絲四〇・綿七〇屯、判官に一五疋・絲二〇・綿五〇屯、録事に一〇疋・綿三〇屯、訳語に五疋・綿二〇屯、史生に五疋・綿二〇屯、首領に五疋・綿二〇屯支給されることになっていた(写真76)。貞観三年の場合は通常では入京後に支給されるものだが、入京させないかわりに現地でそれに相当する量を支給したものであろう(支給といっても全体としてみれば、広義の「貿易」にあたる)。当然、現地から帰国させる場合は通常より減額させたと思われ、当時の使節一〇五人の構成内容は不明であるが、前と同様に咸和十一年中台省牒のメンバーで計算すると(国王宛の分および梢工の分は省略し、天文生は訳語・史生・首領に同じとして計算)、絹一〇疋・四五〇疋・絲一三〇・綿一七六〇屯となる。貞観三年の時は絹一四五疋、綿一二二五屯なので、綿は前記の推定計値の約三割減で、絲が数量的には絹に近い割合で、それぞれ支給されたのではないかと想定される。これらは出雲国の絹や綿を渤海使に「頒賜した」とあるので、現地に負担がかかった可能性は十分ある。これらの数値から、縁海国では供給用の米や交易用のや絹などが大量に必要で、渤海使来航の際の負担が大きかったと推測される。
 なお、渤海使は来航の時に船をよく破損したため、船を修理または新造しなければならなかった。時には意図的に船を壊し、新たな船の建造を要求する場合もあった(『類聚三代格』天長五年正月二日太政官符)。また、先に述べたように元慶七年十月二十九日には、渤海使が北陸道沿岸に来航した時はかならず帰国船を能登国羽咋郡福良泊の山の木で造るため、湊の裏山の大木の伐採を禁止した命令が出ている。弘仁六年の場合(17)などに代表されるように、越前国が帰国船を択んでいるので、九世紀後半以降も縁海国、とくに渤海使が出航した北陸道諸国では帰国船の修造および新造も大きな負担であった。このほか、送使が派遣される場合などは梶取や水手として渤海に赴いた地元の漁民もいたと思われる。



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