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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      若狭・越前両国の対応

                                                        *数字は、表3536参照。

 以上、述べてきたほかに能登の客館や福良津を利用した場合についてふれておこう。延暦二十三年六月二十七日に、近年渤海使が能登国に来航することが多いので、客院を造るようにという勅が下った。来航場所が不明なケースも多いが、福良津に入港し、加賀・越前両国を通って入京した場合もあったと思われる。その際は記録にはみえないが、加賀国からは越前国府を経由するよりは、越前海岸沿いに海路で敦賀津に入り、そこでしばらく日程を調整し入京した可能性も考えられよう。後述するように、このようなところに松原駅館(客館)の存在した意義もあったと思われる。また、『三代実録』元慶七年十月二十九日条によれば、渤海使が北陸道沿岸に来航した時は、かならず帰国船を能登国羽咋郡福良泊の山の木で造るため、湊の裏山の大木の伐採を禁止した命令が出ている。渤海使の場合、特別なことがない限り帰国の際の記事はあまり記されないが、これらの史料からも、帰国に際しては近江より越前・加賀両国を過ぎ能登国福良津に向かったと想定されるので、例外を除き、渤海使が来航した場合は北陸道より帰国し、越前国にその負担がかかったと考えられる。
 これら若狭・越前両国が渤海との交渉・交流で関係するのは、次の四つの場合に分けられる。(一)渤海使が越前国か若狭国にまず来航し安置・供給を行うなど直接関係する場合(4・6・9・10・34)。(二)渤海使が能登・加賀国などに来航後、北陸道を入京の途中、越前国を通過する際に一行の逓送や供給に関与したり、能登・加賀国などに来航した渤海使を入京させずに帰国させるが、越前国は近国であるために来航時の負担に協力したり、国司を派遣するなど、間接的に関与する場合(2・3・21・25・26・28・30・参考3)。(三)渤海使は入京後、帰国する際に能登国福良津より出港する場合が多かったが、帰国する渤海使または日本の送使(遣渤海使)が、渡海する北陸道の港に向かう時に越前国を通過する一行の逓送や供給にかかわった場合(8・16・17・22)。(四)渤海使は送使に伴われて帰国することが多かったが、そうした送使の出港および日本への帰国の際に越前国を通過した場合(@・5)。若狭・越前国での渤海使への対応はこのように分類されるが、渤海使が両国に来航したり通過することにより、地元にどのような負担および影響を与えたのであろうか。負担面としては渤海使への食料の供給や護送のための兵士および人夫の動員、帰国船の修理建造、遣渤海使派遣の場合は船の準備ほか乗組員の徴発などが挙げられよう。一方、プラスの面としては交易により大陸の文物を享受しえたこと、人びとの交流が行われたことである。そこで次に、食料の供給、交易の実態、帰国船の修理について、ほかの国に来航した事例なども参考にしてさらに詳しく述べることにする。



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