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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      十世紀の事例

                                                        *数字は、表3536参照。

写真75 「扶桑集」

写真75 「扶桑集」

34 延喜十九年(九一九) 十一月十八日、若狭国が渤海使裴ら一〇五人が丹生浦(三方郡、旧山東村)に来航したことを朝廷に報告してきた。この報告をうけて、二十五日に右大臣藤原忠平は渤海使を若狭国から越前国へ移して安置してから入京させるべきことを醍醐天皇に奏上した。また、渤海使の対応をする「行事の弁」(担当の弁官)として左中弁藤原邦基が任命された。さらに来航の理由を問う存問使と通事が任命されるが、越前国松原駅館に移された渤海使は、十二月二十四日、門戸が閉ざされており、行事の官人が存在せず、設備や薪炭が備わっていないなど、待遇の悪さを太政官に訴えたので、右大臣は越前国を責めて安置・供給を行わせ、越前掾の某維明を「蕃客行事の国司」に命じ、渤海使への応接の責任者とした(以上、『扶桑略記』)。そののち、翌年三月二十二日には官宣旨が下され、太政官の使で右史生の依知秦與朝が越前国に派遣され、時服が渤海使に支給された(『朝野群載』)。さらに、四月二日には掌客使と領客使が任命されたが(『貞信公記抄』)、この時の掌客使の一人であった大江朝綱は、前回の延喜八年に渤海大使裴が帰国する際に、「送序」(「夏夜、鴻臚館に於て北客を餞する序」)を書いた人物である。大江朝綱は『扶桑集』によれば「裴使主(渤海大使裴)の松原に到る後、予、鴻臚の南門に別れに臨む口号(口ずさみ)を読み、追って答和せらるの什(詩歌)に和し奉る」という題の漢詩をのこしている(写真75)。裴は、帰国に際して平安京の鴻臚館の南門で大江朝綱が贈った詩に対し、松原に至ってから、それに和する詩を作ったことが知られる。ここにみえる「松原」とは『扶桑略記』にいう越前国の松原駅館と思われ、帰国の時も松原駅館を利用したことが知られる(「鴻臚の南門」を松原客館の南門とする説もあり、松原客館で渤海大使裴と漢詩の唱和が行われたという解釈もみえるが、掌客使は京内での雑事を掌るので、帰国時の時間的経過からみて「鴻臚」は「松原客館」の漢語的表現というよりも、平安京の鴻臚館と解したほうが正しいであろう)。渤海使は越前国に、十二月から翌年の四月ごろまで約四か月余り滞在したと思われる。そののち、渤海使は延喜二十年五月八日に入京し、そのあと、国書の奉呈など「賓礼」の各行事に参加したあと、十八日、帰国の途に就いた。帰路の詳細は不明だが、おそらく近江国から、先に指摘した『扶桑集』の漢詩にみえるように越前国の松原駅館に至り、六月二十二日ごろにはすでに日本を離れていたらしい。ところが、二十六日に領帰郷使が伝えるところでは、渤海使の一行より逃走し、日本にとどまって帰国しない渤海人が四人いることが伝えられ、二十八日、これら渤海人を「大同五年の例」(16参照)に準拠して、越前国に安置させることが決められた(以上、『扶桑略記』)。このように、越前国に亡命した渤海人がしばしば滞在したことは、古代の越前国の国際性を物語るものである。なお『扶桑略記』裏書の延喜二十二年九月二日条によれば、この日「渤海客」を越前国に安置する旨の解文が朝廷に進上されている。新たな渤海使が来航したことを指すかもしれないが、このところ渤海使は来航の年限を守っており、この年はこれ以外に関連する史料もなく、また「裏書」ということで、書写の際の誤りの可能性もあるものの、この記載が事実とすれば、延喜二十年の時に帰国せず越前国にとどまった渤海人に関する解文との理解ができる。
参考3 延長八年(九三〇) 前年の延長七年の十二月二十三日、丹後国竹野郡大津浜に東丹国使裴ら九三人が来航する(『扶桑略記』裏書 延長八年正月三日条)。この使は渤海国を滅ぼした東丹国の使者だが、大使裴は東丹国に臣従した旧の渤海人であり、存問の際に東丹国を非難したため、現地から帰国させられた。『扶桑略記』裏書の延長八年正月二十日条に「渤海客の舶修造料は并びに若狭・但馬、結番し正税を以って同客を饗すべきなり」とあり、東丹国使の船の「舶修造料」は若狭・但馬両国が順番で負担することになった(使の供応にかかった費用は、若狭・但馬両国の正税を利用したとも、丹後国の正税を利用したとも解釈が可能である)。



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