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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
     二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      九世紀の事例

                                                         *数字は、表3536参照。

16 弘仁元年(八一〇) 前年大同四年(八〇九)十月一日に来航した渤海使の一行(大使は高南容)は、大同五年(改元して弘仁元年)四月八日に帰国の途に就くが、五月二十七日になって、首領の高多仏なる人物が一行を離れ、越前国にとどまったというので、越中国に安置し給食し、史生の羽栗馬長と習語生を高多仏につけて「渤海語」を習わせたという。出航した場所は不明であるが、越前国か能登国と思われる。越前国は一行の供給のほか、亡命渤海人の対応にもあたったことが知られる。
17 弘仁六年 前年弘仁五年に来航した渤海使王孝廉らは、弘仁六年正月の一連の京内での行事を終え帰国するが、海上で逆風に遭い、漂廻し舟が折れ使用不能となる。そして五月二十三日、越前国に命じて「蕃客」(渤海使)の乗る「大船」を択ばせている。出港した場所は不明であるが、北陸道からであることは間違いない。おそらく渤海使は途中、越前国に安置・供給されたと思われる。さらに六月十四日、大使王孝廉は「瘡病」を患い死去し、判官の王昇基、録事の釈仁貞も死去した。結局、弘仁七年五月二日に副使高景秀に再度、国書と信物を授けており、まもなく渤海使は出港したと思われる。その間、船の完成や使人の病が癒えるのを待ったと思われるが、約一年間、渤海使は越前国およびその近辺に滞在したと考えられ、越前国は船の提供のほか、滞在経費の負担も行ったと思われる。
21 弘仁十四年 十一月二十二日、加賀国は渤海使高貞泰ら一〇一人の来航を伝えた。十二月八日に今年は雪が深く往来に困難なため、京より存問使の派遣をやめ、越前守で加賀守も兼ねていた紀末成と同掾秦嶋主らに渤海使の存問をさせている。翌天長元年(八二四)二月三日、近年の不作と疫病により、渤海使は入京させずに帰国させる旨の詔が伝えられ、四月十七日に越前国が渤海国の信物と大使高貞泰らの別貢物および契丹大狗と子それぞれ二口を京進し、淳和天皇に進覧した(二十一日、渤海使に返却される)。これは、この年二月三日の「太政官奏」で加賀国が越前国から江沼郡と加賀郡を割いて分立したばかりで、越前国司が加賀国司を兼任していたためであるが、渤海使の供給の費用が越前国からも支給されていたり、渤海使が越前国で安置・供給されていた可能性も十分想定できる。渤海使は五月二十日以降に帰国しているが、太政官は正月二十四日の右大臣藤原緒嗣の上奏をうけ、渤海使の来航の年限を改定し、一紀(一二年)一貢とすることを六月二十日付「太政官符」で縁海各郡に伝えている。若狭・越前両国の日本海沿岸の各郡にも伝達され、渤海使来航の際の対応の基準となったと思われる。
22 天長三年 前年天長二年十二月三日に隠岐国に来航した渤海使高承祖ら一〇三人は、三月三日に入京後、五月十四日、帰国のため京より加賀国に向かった。この時も越前国を通過したと思われる。
25 嘉祥二年(八四九) 前年嘉祥元年十二月三十日に能登国は渤海使王文矩ら一〇五人の来航を伝えた。翌二年二月一日、存問使が能登国に派遣され、三月二十八日以降、存問使が領客使となり京に向かい、渤海使は四月二十八日に入京している。この時も渤海使は越前国を通過したと思われる。
26 貞観元年(八五九) 正月二十二日、能登国が渤海使烏孝慎ら一〇四人の珠洲郡への来航を伝える。二月四日に渤海使は能登国の国府に到着したらしく、さらに詔により能登国から加賀国の「便処」へ移されるが、結局「国喪」(文徳天皇の死去)により入京させないことになる。しかし三月十三日、渤海副使の周元伯が非常に文章に習熟していたため、越前権少掾嶋田忠臣を仮に加賀権掾として派遣し、漢詩を唱和させている。九世紀から十世紀にかけて越前国司には嶋田忠臣のほか、都良香(権介、貞観十八年〜元慶三年)、橘広相(権少掾、貞観五年〜)、藤原佐世(大掾、〜貞観十四年・十六年〜)、三善清行(権少目、元慶元年〜四年)、紀貫之(権少掾、延喜六〜七年)、大江朝綱(介、承平六年)など文章に卓越した人物が任命されている(「若狭・越前国国司表」『資料編』一)。これは渤海使の来航と深い関係があろう。のちの史料だが、『西宮記』二の除目には「文章生三人、北陸・山陰道、大宰」とあり、『魚魯愚別録』六の内舎人文章生外国に引く「綿書」(源師時編の除目の儀式書)中夜には北陸道・山陰道・西海道諸国の国司について「件の三道は唐人并びに渤海等の異客、来着の方なり。其の国々の道、文法を習うの輩を以って任ぜらるか」とあるように、実際は渤海も滅びたのにかかわらず、名目的なものであるが、平安中期から、院政期にかけて北陸道の国司に漢文・漢詩の才のある文章生が任命されるよりどころとなった。貞観元年の場合、渤海使は入京せず、路次の負担はないが、越前国司は加賀国に赴き、渤海使の接待にあたった。
28 貞観十四年 前年貞観十三年の十二月十一日に渤海使楊成規ら一〇五人が加賀国に来航する。翌年正月に平安京では「咳逆病」が流行し死者多数にのぼり、世間では渤海使の来航による「異土の毒気」のせいだという噂が広まる。五月十五日に渤海使は入京するが、この時も入京途中、越前国を通過したと思われる。結局、渤海使は「不祥」の兆しということで、入京させたものの、鴻臚館にとどめ、宮内で引見しなかった。
30 元慶六年(八八二) 十一月十四日、渤海使裴ら一〇五人は加賀国に来着する。十一月二十八日、渤海使を「便処」に安置・供給する太政官符が下り、もたらされた貨物を私的に交易することが禁止された。翌元慶七年正月二十六日には、渤海使の入京に際し、途中の山城・近江・越前・加賀の各国に対して、官舎や道橋を修理させ路辺の死骸を埋葬すること、さらに渤海使をねぎらい饗応するため越前・能登・越中の三国に酒・宍・魚・鳥・蒜などの食料を加賀国へ送るよう命じている。渤海使は四月二十八日に入京しているので、正月下旬から四月中旬ごろまで滞在したことになる。この間、越前国は他の二国とともに渤海使の食料などを負担し、入京時の逓送を行った。史料に現われない場合が多いが、渤海使の入京時には路次の関連施設の整備および渤海使がよく来航する加賀・能登両国が小国だったこともあり、渤海使の食料の調達など大きな財政負担が越前国にかかったことを物語る。



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