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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      「縁海」国司の外交に関する職務と国書の開封
 職員令によれば、大宝令制定当時は渤海使の来航は予想されなかったため、大宰府をはじめ「蕃夷」の人びとと接触する可能性のある地域の国ぐに(壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅の諸国)にのみ、彼らへの対応・迎接が規定されていた。しかし、神亀四年(七二七)、渤海使が初めて来航すると、「壱岐」以下の規定や蕃客が来航してから入京するまでの対応の規定は、日本海沿岸諸国にも適用されたようである。公式令によれば、外国人が来航した時には「所在の官司」すなわちその国の国司にその容貌や衣服を描いて報告する義務が課せられていた。国司がまず渤海使の対応にあたったことがわかる。そして、主に渤海使の場合、天平宝字年間までは律令政府は縁海国司からの連絡を受け、ほとんど問題なく入京させていた。
 ところが、宝亀三年正月に平城京内に参進した渤海使壱万福らがもたらした表(国書)が無礼であったとして、表函・信物を使者にいったん返却し、表文を改修させた事件を境に、使が入京する以前に来航した縁海国で国書が開封されるようになった。宝亀十年十月九日には、来航した新羅使に関して、もし表(国書)があれば「渤海の蕃例」に準拠して写しを京に進上するようにとの命令が大宰府に下った。当時、渤海使は先に述べたように、「筑紫道」すなわち大宰府経由以外の来航を禁止されており、宝亀十年十月の段階でも解除されず、同じ政策がとられていた。したがって、この宝亀十年十月の記事にみえる「渤海の蕃例」は、それ以前に大宰府に対して渤海使がもたらす国書を、あらかじめ書写して京進することを命じたものである。さらに、宝亀四年六月には、能登国司は「表函」を開封して国書の内容を読み、それが「例」に違い無礼であるとの判断を下し、この報告を受けて太政官が使を派遣して、入京させずにそのまま帰国させる旨の太政官処分を宣告している。したがって、おそらくは宝亀三年に壱万福らの帰国に際して、大宰府に対して出されていた渤海使の国書を開封し、前例に叶っているか否かを調べる方針(「例」)を、宝亀四年六月段階ではすでに日本海「縁海」諸国にも適用させていたらしい(石井正敏「大宰府および縁海国司の外交文書調査権」『古代文化』四三―一〇、田島公「外交と儀礼」『日本の古代』七)。
 それ以後は渤海使のもたらした国書を国司が開封して調査し、書写して京進することとなったが、国書の内容はその使を入京させ「賓礼」に処するか否かの重要な判断基準であり、この変化はそののち、京内の外交儀礼の重要性を次第に軽くするという変化をもたらした(田島前掲論文)。ただし実際は、縁海諸国の国司がこの任務を果たしていたかというと、どうもそうではなかったらしい。それは、天長四年十二月二十九日に但馬国に来航した渤海使の処遇に関する翌五年正月二日付「太政官符」によると、渤海使が来航した国の国司に対して、再び国書の開見を命じているが、それ以前は「朝使」すなわち京から派遣された存問使が国書を開封していたことがわかるからである。そのあとも、承和八年・嘉祥二年(八四九)・貞観元年・同十四年・元慶元年(八七七)の例からもわかるように、渤海使を勘問し、国書を開封・書写して京進する主体となったのは国司ではなく存問使であり、入京か放還かの最終判断は天皇および太政官に委ねられていた。



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