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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      存問
 渤海使が来航した場合、宝亀四年の能登国の例のように、国司が使を現地に派遣していることがわかるが、具体的には、おそらくは近隣の住民より渤海使来航のことが郡家に連絡され、さらに国府に伝えられたあと、天長五年正月二日付「太政官符」(『類聚三代格』)にみえるように、まずは国博士などが派遣され、来航した理由を問う「存問」が行われた。「存問」とは安否を問うこと、または慰問することであるが、これとともに渤海使が「蕃客」としての条件を具備しているか否かを、使者の地位・身分・意識や持参した物などによって検問する意味がある(田村圓澄「『大宰府探求』補遺」『九州歴史資料館研究論集』一六)。さらに具体的には、存問使の主な任務は、渤海使が来航の年限を守っているか、来航にふさわしい国書を持参しているかを調べることであったと思われる。来航理由を伝える使節の解状の提出や簡単な質問と回答がなされて、それらも含め渤海使の消息が国司を通じて「解」で太政官に上申されたが、さらに詳しく調べるため、京から「存問使」が派遣された。当時の史料に「便処」とみえる場所、おそらくは郡家や国府(または客館)などに安置されている渤海使に対して詳しい尋問がなされた。
 『延喜式』太政官・治部省には、外国使が来航すると、その応接をするさまざまな使を任命することが規定されているが、そのなかに「存問使」二人とそれに従った「隨使」「通事」が各一人定められている(存問使は入京の際に領客使になった)。そして、存問使の報告は「解」によって太政官に上申されることになっていた。それらの尋問記は「存問記」というかたちで京進され、さらに、国書すなわち渤海国王の「王啓」や中台省の牒を開封しそれを書写して京進するとともに(原本は使節に返す)、もしも入京させるにふさわしくない内容の場合は、そのまま国書を返却して現地から渤海使を帰国させる任務も帯びていた(しかし、後述するようにたいていは太政官の判断によっている)。この国書の開封について次に詳しく説明する。



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