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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      来航の年紀
 渤海使は何年に一度来航したのだろうか。初めの三回の渤海使は十二年(一紀)一貢のようであったが、八世紀中ごろからかならずしも一定せず、しだいに貿易目的から渤海使は頻繁に来航するようになる。そして、延暦十五年(七九六)十月、渤海側は日本からの使(御長広岳)の帰国に託して、日本に渤海使の来航の年限を決めるように申請してきたが、日本側は延暦十七年五月十九日に、遣渤海使(内蔵賀茂麻呂)に国書を託し、渤海に対して隔年で来航するのは大変であるから、六年一貢を告げ、使者の人数制限もなくした。だが同年十二月二十七日、隠岐国に来航した渤海使(大昌泰)が進めた国書によれば、渤海側は六年一貢の撤廃を要求してきた。これを受けて日本側は延暦十八年四月十五日、帰国する大昌泰に国書を授け、六年一貢を撤廃し、来航の年限を立てないことにし、五月二十日付「太政官符」で関係国にこの改定を伝達した。そののち、来航の年限を決めないことにすると渤海使は頻繁に来航するため、財政難もあって、藤原緒嗣は渤海使の本質を「商旅」と認定し、たびたび上奏してこのことを訴えた結果、天長元年(八二四)六月二十日、渤海使の来航を一紀(十二年)一貢に改める太政官符を関係の「縁海」国郡に下した(『類聚三代格』)。以後、渤海使が来航すると、この官符により来航の年限に満たない場合は、入京させず現地より帰国させるケースが増えることになる。



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