目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      入京の規定
 渤海使の来航の年限および持参した国書を調べた結果、入京となるか現地より放還となるかのいずれにしろ、来航した現地では「安置」すなわち一時的に滞在させ、「供給」すなわち食料や衣料など生活物資を支給した。「安置」する場合は、史料には「便処」に「安置」したことがみえるが、先に述べたように具体的には「郡家」(天長五年正月二日太政官符)のほか、国府または駅館などが利用されたと思われる。そして北陸道の場合などでは、しばらくして能登あるいは松原の「客館」などに移送された可能性が高い。
 現地での「安置」「供給」のあと、渤海使は入京する。律令にみえる渤海使など「蕃客」が入京する際の規定について説明を加えると、軍防令・賦役令・儀制令によれば、外国使の一行は各国が徴発する兵士によって、国ごとにリレーされて送られ(逓送)、京まで護送された。そして、渤海使の入京にあたって、兵士のほか、車・牛なども用いられ、国郡に所在するさまざまな器物が用いられた。また、関市令によれば、「蕃客」が初めて関を通過する際には、関司と「当客の官人」(京より派遣された領客使)が所持品を記録して治部省に報告すること、途中に関がなければ、最初に通過する国の国司がこれに准じることになっていた。国司などが渤海使の所持品検査を行ったのである。
 雑令によれば、「蕃客」の往還のため、大路の近辺に「蕃人」および「蕃人」の奴婢を置いてはならず、伝馬子や援夫などに「蕃人」を徴発することも許されなかった。これは、機密の保持にかかわるものであるが、職制律にも機密事項である大事を外国使節に漏らした場合の罰則規定が定められている。律令国家は外国使節と官人をはじめ民間人が私的に交際することを禁止したのである。また、公式令によれば、「帰化」する外国人が滞在する客館でも私的な交流は禁止されていた。外国使節に関するこれら律令の規定は、令の施行細則である『延喜式』玄蕃寮の式文にまとめられている。
 このほか、入京する途中の路次では、さまざまな祭祀が行われた。渤海使以外の外国使に関しての規定も示すと、『延喜式』神祇には「唐客入京する路次祭」、「蕃客を堺に送る祭」、「障神祭」の三つの祭祀が規定されている。まず、「唐客入京する路次祭」は具体的な祭祀の実態は不明だが、畿内とそれ以外の諸国に使人各一人が遣わされるほか、中臣氏も派遣される規定になっており、「路次」すなわち入京途中で祭祀が行われた。また、「蕃客を堺(境)に送る祭」では、外国使節が入京する際、畿内の境に迎え、外国使節に付着してきた「送神」を「祭却」し、使節が京内に至るころ、祓麻を支給して祓を行ってから入京させることになっていた。さらに「障神祭」では、外国使節が入京する前の二日、京の四隅において「障神」のために祭りを行うことになっていた。
 このほか、『延喜式』玄蕃寮には新羅使に対して、摂津国の敏売崎や難波館で酒(神酒)を給う規定がみえる。後述のように、外国使節は穢れや異国の神を付着していると律令国家の支配者層には認識されており、その祓を行ったり、お神酒を飲ませることによって穢れを取り除いてから入京させなければならなかった。これらの規定は畿内周辺のことのみで、渤海使とも明示されていない規定もあるが、入京直前のみならず、来航直後および途中の路次、各国の国境などで渤海使に対しても祓を行うことが義務づけられていたと思われる。
 なお、渤海使は入京して天皇に拝謁し、渤海国王からの国書や信物を献上し、歓迎の宴会に参列したあと、天皇から国書や信物を受け取ると、「領帰郷客使」らに付き添われ、出航する北陸道の港をめざして帰国の途についた。途中の各国では入京時と同様に兵士(のちに駄夫)などによってリレーされ護送された。また、『延喜式』太政官によると、帰国時には馬が支給された。帰国の途中、「松原客館」などに安置され、天候の回復を待ったり、渤海使は来航の際に船をよく破損したため、船を修理また新造してもらい出航したのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ