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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    四 嶺南地方の条里
      復原した条里プランの検証
 若狭国分寺の寺域は、昭和四十七年から三か年の発掘調査と、同五十四年からの史跡公園整備によって、約二町四方であったことが確認された。さらに、寺域には塔跡・中門跡も存在し、各遺構の方位は北十七・五度東で周囲の条里地割線の方位と一致することも判明している(小浜市教委『若狭国分寺跡』)。このように、志味里一里十六・十七・二十・二十一坪の田畠の空白部は、現国分寺を含む地域と一致することから、その西隣の遠敷集落を含む里の区画が河上里四里となる。さらに、その西隣の検見坂を含む里の区画が億田里一里に相当する。しかも、国分寺の一三町西に「郷境」の小字地名があり、億田里の境とも一致する。
 そこで、ここでは「西郷検田帳」記載の九か里について、地形や土地利用との整合性について検討したい。検田帳記載の内容は、「川成」などの記載があり、地形の状況を知る手がかりとなる注記もある。一方、里の三六坪すべてに田が記載されているわけではなく、また田の記載があっても、田積の合計はかならずしも一町とはかぎらない。それら記載の注記や田積を表現したものが図85・86である。ただ、検田帳には、田の所在が一つの坪のどの位置であるか示されていないので、図86には坪ごとの田積の合計を各区画の南辺から棒グラフ状に表現した。記載のない空白部は、山・川・沼沢地などと考えられる。
図85 「西郷検田帳」にみえる田畠の説明図

図85 「西郷検田帳」にみえる田畠の説明図


図86 「西郷検田帳」にみる田の分布

図86 「西郷検田帳」にみる田の分布

 億田里三里と河上里六里の空白部は、栗田・高塚集落と太良庄集落との間にせり出している山地の形状とまったく一致し、全体の田の分布が小浜平野の地形と比較的よく一致する。したがって、先に復原した条里プランが妥当であるといえよう。
 次に、建久六年(一一九五)の「太政官符」(吉川半七氏所蔵文書『資料編』二)にみえる国富保木前五里・六里、とくに木前五里の現地比定を考えたい。この「太政官符」は鎌倉初期の遠敷郡国富保の四至と田数および所在の里・坪を記載している。四至は「東限山峰、南限次吉并神女崎、西限山峰、北限山」とし、「示五本」の位置も示している。「神女崎」は西津山が羽賀集落の南で東にせり出した山裾に相当しよう。また、「次吉崎」は、この神女崎と相対するように次吉集落の南で栗田集落との間に西にせり出した山裾に相当しよう。したがって、この神女崎と次吉崎を結ぶ東西線以北に保田三四町余が所在したことになる。
 この東西線の北に「塩堺」の小字地名があり、それは荘境の転化と考えられる。この「塩堺」のさらに北に「二ノ坪」「三ノ坪」が並ぶ。「太政官符」記載の保田の所在を先に述べた千鳥式坪並で考えると、木前五里に記載のない三十一坪から三十六坪は、次吉集落と熊野集落との間に突き出した丘陵に合致し、さらに、「塩堺」の北に続く「二ノ坪」「三ノ坪」は、木前五里の十二坪、十三坪に相当することになる。このように、木前五里の位置を特定できる。そこで、その南に木前四里から一里の復原が可能となり、同一里は木崎集落付近に相当するので、小浜市木崎が「木前」の遺称地名として定着したものと考えられよう。
 以上のことからも、先に復原した小浜平野の条里プランは妥当であると考えてよいが、里の名称・配列などは十二世紀ないし十四世紀のものであり、八世紀と同じかどうかについては速断をさけねばならない。



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