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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      古代日本の「窓口」としての若狭・越前国
 日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。唐とは、八世紀には二〇年一貢の約があったらしく、迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが(東野治之『遣唐使と正倉院』)、唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇〜八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。
 そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。ここでは渤海との交渉のなかで若狭・越前両国が果たした役割を詳しく述べることにする。



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