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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    三 条里プランと福井平野の土地開発
      土地開発の進展度
 各郡において直交する南北・東西両基準線は、いずれも各郡域の中央に設定されたものではなかったようである。南北基準線は、足羽・坂井郡で東偏し丹生郡では西偏している。東西基準線は、三郡とも南に偏っている。まず、丹生郡にあっては、国府推定域が基準線の交点付近に位置することになり、一つの可能性としてその点に関連性を求めることができる。次に、坂井・足羽郡にあっては、とくに南北基準線が東偏しており、比較的安定した土地条件を示す郡東部側に位置している。事実、両郡の場合、条里地割分布地の広がりの状況に関連性を求めることができそうである。というのも、その基準線の交点は、越前国に条里プランが導入された天平勝宝七歳時点での条里地割施工範囲の中心であった可能性が高いからである(岸俊男『日本古代宮都の研究』)。
 一方、条里地割分布地と東大寺領荘園の位置をみてみると、坂井郡子見村・田宮村・鯖田国富荘、足羽郡糞置村・栗川村は条里地割分布地の縁辺部となり、坂井郡桑原荘・溝江荘、足羽郡道守村・鴫野村、丹生郡椿原村はその僻遠地に位置したことになる。
 以上のことから、福井平野の土地開発の進展度を知るうえで、条里基準線の位置と条里地割分布地、それに東大寺領荘園の位置とは相互に深い関連性を認めることができるといえよう。すなわち、奈良時代中ごろの福井平野において、条里地割分布地は開発がよく進んだ地域であり、東大寺領荘園が設定された部分はこれから開発が進展する地域であったと考えてよいことになる。



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