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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    三 条里プランと福井平野の土地開発
      東大寺領荘園の立地
 条里地割分布地と各東大寺領荘園比定地との相対的な関係を知るため、足羽郡栗川村を例に挙げて考えることにする。図82に示した相替得田・改正田の位置は、天平神護二年に東大寺が荘園の一円的支配を図るために確保した荘域内の田の所在である。一方、相替代給田は荘域外の地であるが、天平勝宝元年の野地占定の際にはおそらく占域内であった可能性が高いと考えられる。したがって、東大寺が設定した栗川村の荘域および占域は、足羽郡東南部一帯に広がる条里地割分布地との関係をみても明らかなように、その縁辺部に位置することになる。
図82 栗川村の東大寺田の現地比定

図82 栗川村の東大寺田の現地比定

 ところで、文書にみえる栗川村の記載のなかに「南野開治溝」(寺三三)、「正認東西畦、彼此相違」(寺四二)とあることなどから、天平勝宝元年の野地占定あるいは同七歳の越前国に条里プランが導入された段階(一項)には、かならずしも開発がよく進んでいた地域とはいえないようである。というのも、この周辺は江端川が南からの小河川を合わせて蛇行しながら流路を北に変える付近であり、すぐ東側に整然と広がる条里地割が極端に乱れる所でもある。付近一帯は河川の氾濫などによって湿原と化すことも考えられ、安定した土地状況を示すとはいえないからである。
 この栗川村でみたように各東大寺領荘園の立地を考える場合、文書にしばしばみえる「野」「未開」「荒」などの記載や溝の開削記事、また、一項ですでに指摘されている条里プランの不明確さによる土地表示上のあるいは行政手続き上の混乱は、各荘園の立地条件が良好でなかったことによるのである。
 



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