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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    三 条里プランと福井平野の土地開発
      東大寺領荘園の比定地
 東大寺は、天平勝宝元年(七四九)の野地占定あるいはそれ以後の墾田の寄進・買得という手段によって、福井平野に広大な寺領荘園を確保していたことはよく知られている。それらの所在は、文書・開田地図に条里呼称法にもとづいて記されているので、先に述べたような条里プランを確定することによって各荘園の所在を知ることができる(図81)。とくに、天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)には、寺領荘園の一円的経営を目的とした寺田の集積過程と結果が条里呼称法にもとづいて記されている。それらの記載から、一円化された各荘園の概域を知ることができる。すなわち、東大寺田として新たに登録された田の所在は荘域内であり、一円化のため交換の代給地として百姓に与えた田の所在は荘域外とみてよい。また、同日付の開田地図三幀は同文書と一体をなすものであり、開田地図の現地比定によってその位置がより具体的となる荘園もある。そのほか、荘園の成立・経営にかかわる関連文書の条里坪付記載などもその重要な手がかりとなる。以下、各郡ごとに荘園の比定地を示し、必要に応じて説明を加えておく。
図81 福井平野の条里基準線と東大寺領荘園の位置

図81 福井平野の条里基準線と東大寺領荘園の位置

 坂井郡では、高串村は前述のごとく福井市白方町付近に、また子見村は坂井町蔵垣内から上兵庫付近に、田宮村は春江町江留中から藤鷲塚付近に、鯖田国富荘は丸岡町南横地から福井市栗森町付近に比定できることになる。桑原荘は金津町桑原が遺称地名であると考えられるのでその付近に比定できる。一方、延暦十五年(七九六)五月四日付「越前国坂井郡符」(寺五九)にみえる「溝庄」は溝江荘と考えられ、しかもその田の所在は西北あるいは東北九条一里に分布していたとみてよいので、桑原荘と同じように金津町桑原から伊井付近であったと推定できる。また、平安中〜後期にかけての東大寺領荘園関係の目録には両荘の認識に混同がみられることから、桑原荘の経営不振・荘田の荒廃によって、溝江荘は桑原荘の大半あるいは荘域の一部を継承して再編・成立した可能性が高いと考えられる。この点からも、桑原荘と溝江荘は、ほぼ同じ位置に比定してよいことになる。
 足羽郡では、道守・糞置村は前述のごとくであり、栗川村は福井市下莇生田町から下河北・下荒井町付近に比定できることになる。しかし、道守村開田地図を現地に比定した結果(北約五度西の条里プラン)は、前述のような足羽郡条里プランの延長とでかなりずれた位置となる。一方、この道守村のすぐ北に隣接していた鴫野村は、道守村条里プラン上よりも足羽郡条里プラン上で考えた方が日野川流路などの地形条件において適合性が高くなるので、足羽郡条里プラン上で福井市菅谷町から大瀬町付近と考えた方がよいであろう。
 丹生郡椿原村は清水町島寺から清水山・真栗付近に比定できる。



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