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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    四 嶺南地方の条里
      敦賀郡の条里
 敦賀郡は古代から越前国に属し、その範囲は現在の敦賀市域のみならず丹生郡や南条郡の一部をも含んでいた。その郡域はリアス式海岸の若狭湾東端に位置する敦賀湾をU字形に囲む形をなす。敦賀平野は琵琶湖北部の破砕帯に位置し、何本もの断層に刻まれ海抜八〇〇メートル前後の定高性の湖北山地を背にしており、木ノ芽川・笙ノ川・黒河川・井ノ口川の堆積作用によって形成された複合扇状地である。若狭湾岸では他の平野に比べるとまとまりのある広さをもっているが、条里地割は平野の一部にしかみられない。
 この平野最大のまとまった条里地割の分布地域は、平野東部の旧中郷村から旧東郷村南部にかけての、高野断層線の断層崖前面に広がる笙ノ川と木ノ芽川とに挟まれた扇状地末端部で、地形的に比較的安定したところである(図83)。道口・古田刈・長沢・坂ノ下・吉河・中・高野・谷・舞崎などの地区にわたって面積約九〇町の規模で分布する。地割は、ほぼ正南北方位をとる。木ノ芽川右岸では旧東郷村余座・大蔵の余座池見を除く部分にも正南北方位の条里地割がみられる。また気比の松原南側に位置する松島・三島・津内・野神にもかつて、それぞれ正南北方位の条里地割がみられたが、この地域の一部は新笙ノ川の開削のために昭和六年までに潰廃した。平野西部を流れる井ノ口川中流域、木崎集落付近右岸の自然堤防帯にも若干分布する。井ノ口川の支流落合川上流部の沓見に、旧中郷村に次ぐまとまった条里地割の分布がみられる。
図83 敦賀平野の条里地割分布

図83 敦賀平野の条里地割分布

 敦賀平野の条里地割は、散在的で非連続的であり、明確な条里関係地名や条里関係の史料もないので条里の復原作業は困難である。ただ、旧中郷村から旧東郷村南部にかけての条里地割が広く分布する地域に、「二」〜「六」の数詞をともなう小字地名がまとまってみられるが、条里関係遺称地名とは判断しにくい面がある。
 敦賀平野東北部の金ケ崎山を越えた田結川流域の沖積地には、北五度東に傾く約一〇町の条里地割を検出できる。『万葉集』の笠朝臣金村の長歌に「藻塩焼く手結が浦」とあり、短歌には「越の海の手結が浦を旅にして見ればともしみ大和思ひつ」と歌われている(三―三六六)。式内社田結神社も田結に比定され、開発が早かったことがうかがわれる。
 織田盆地は、現在では嶺北地方の丹生郡に属するが、古代にあっては式内社の比定などにより、敦賀郡所管の伊部郷の地と考えられている。織田町織田・大王丸・中にかけて正南北方位の約二〇町にわたる明瞭な条里地割が分布している。



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