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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
     二 嶺北地方の条里
      坂井郡条里の復原
 広大な福井平野は、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川とそれらの支流の堆積作用によって形成された沖積平野である。この福井平野は、古代越前国三郡(坂井・足羽・丹生郡)の生産活動の主要な舞台となったところでもある。各郡の正確な郡界は不明であるが、文書や木簡に記される郷(里)名や『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)の郷名などから、坂井郡は九頭竜川以北の坂井平野および福井市川西地区以北の地域、足羽郡は九頭竜川以南、旧浅水川以北、日野川以西の福井市域を中心とした地域、丹生郡は旧浅水川以南の武生盆地を中心とした地域と考えられる。
図76 高串村口分田地図の現地比定

図76 高串村口分田地図の現地比定
注) 等高線・水系などは、昭和37年測量2500分の1国土基本図による。

 ところで、東大寺開田地図のなかで坂井郡に関するものとして「越前国坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図」(以下、高串村供分田地図)がある。それには、高串村の荘域、条里プランにもとづく方格線と土地表示、田の状況を示す文字情報、付近の地形的な景観などが記載され表現されている。それらの記載事項の検討と現地の地形条件などによって、図76のような福井市白方町付近に現地比定ができる(金田章裕『古代日本の景観』)。
 当郡では、条里関係地名が条里地割の分布地にはなく、その小字の形状も不規則で一町方格のものはない。しかし、郡東部の比較的まとまった条里地割分布地においては条里の方格線を認定することができるので、これに高串村供分田地図の現地比定によって確定できる西北四条十七・十八里の位置とを考え合わせることによって条里復原が可能となる。復原したものは、南北線が北約一度西に傾く条里プランである。南北基準線は北から金津町矢地・清間、坂井町長屋、丸岡町八ツ口・北横地を通って福井市河合新保町と同市漆原町の両集落境に、また、東西基準線は東から丸岡町小黒の集落北側、同町八ツ口、春江町沖布目・江留中を通って福井市布施田町の集落に至る位置となる。南北・東西両基準線の交点は丸岡町八ツ口付近である。
 坂井郡に関する奈良期の文書史料にみられる条里呼称法をともなう土地表示の記載には、「東北二条六岡本里」「東北三条四丸岡下里」「東北三条五女田里」「西南三条十一天狭川里」(寺七)、「西北六条四大口里」(寺四四)がある。それぞれがこの条里プラン上で坂井平野東部の加越山地山麓、丸岡町中心部、同町女形谷、福井市天菅生町、中世から近世初期の大口郷(坂井町西・東・蔵垣内・五本)付近に位置することになる。
 平安期末の承安四年(一一七四)三月二十八日付「越前国一品田勅旨田坪付」(文一九九)の端裏書にみえる「佐々和田」「一品田」、さらに、その前年の「越前国司庁宣」(文一九八)にみえる「船寄村」は、前者の文書の坪付記載から条里基準線の交点付近と考えられる。とすれば、先の条里プラン上で丸岡町笹和田・一本田・舟寄がほぼ条里基準線の交点付近に相当する位置となる。また、鎌倉末から南北朝期にかけての記載と推定されている「坪江上郷条々」(内閣文庫所蔵)のなかには、条里に関する記載がある。それは冒頭に「坪江上郷条里」、次の行に「坂北」とあって、以下「十条六里 釜谷南」「十二条五里 佐々岡」とみえる。坪江上郷の比定から、それぞれ坂井平野東北部の金津町鎌谷・笹岡に想定できる。事実、それらは、先の条里プラン上での東北十条六里、同十二条五里付近に相当する位置となる。
 以上のことから、古代から中世にかけての文書にみえる条里呼称法をともなう里名や地名が、比較的よく現行地名と適合するといえよう。したがって、先に指摘した現行地名は、古代から中世にかけてのそれらが遺称地名として定着したものと考えることができるので、先の条里プランの復原が妥当であると考えてよい。しかも、当郡では中世になっても従来の条里呼称法が一定の役割を果たしながら機能していた可能性が高いと考えられる。



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