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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      条里地割の形成
 天平神護二年の「越前国司解」(寺四四)には多数の没官田・口分田・乗田・墾田・改正田・相替田などを記載しているが、条里プランに従って記録された土地の面積はさまざまである。たとえば、足羽郡道守村西北一条には次のように記されている。
  十一上味岡里一葦原田二段<岡本郷戸主道守床足墾、買為寺田> 直稲四十八束
     五味岡田五段三百歩<上家郷戸主野於斐太戸秦前田麻呂墾、買為寺田> 直稲一百四十束
     六味岡田二段二百四十六歩<同田麻呂墾、買為寺田> 直稲六十四束
     七味岡田下五段一百十六歩
      分四段八十四歩<江上郷戸主足羽毛戸同浄成女墾、買為寺田> 直稲一百一束
      分一段三十二歩<草原郷戸主中臣部小金戸同大金墾、買為寺田> 直稲二十六束二把
 このような形で列記された地筆は、合計すると四四七筆に達する。そのうち、一段以下の端数のない地筆は一四三筆、端数のあるものが三〇四筆である。条里地割の典型とされる長地型や半折型といった規則的な地割形態は一段を単位とするものであるから、このように端数のある面積の田は、そのような地筆とはかならずしも対応しないことになる。しかもその比率が約七割に及んでいる。
 つまり、八世紀ごろにおける、このような土地の記録あるいは土地管理のシステムにとって、もっとも基本的なのは面積一町の正方形である坊(坪)の区画であったことになる。また、発掘調査によって確認されている八世紀の条里地割に、坪の区画線はほぼ不動であるものの、洪水後の復旧の度ごとに坪の内部の地筆の畦畔の位置が変化している例がある。この場合も、八世紀の条里地割の基本が一町方格の碁盤目状の区画であったことを示し、その内部がかならずしも長地型や半折型の地筆に区分されていたわけではないことを例示している。ただ、一町方格が条里地割の基本であったとはいっても、それさえも不明確な場合があったことは、糞置村や高串村の例がよく示している。
 しかし、八世紀に完成した条里プランは、墾田・口分田・乗田といった土地の管理システムが崩壊したあとにおいても使用され続けた場合が多かった。越前国では、十二世紀にいたるまで機能していた部分もあれば、十世紀の中ごろにすでにそうではなかった部分もある。若狭国の場合、条里プランの使用例はさらに十四世紀後半にまで及んでいる例がある。
 条里プランが使用され続けると、それに対応して条里地割もしだいに整備された状況になった場合が多かったと考えられる。逆に、早く機能しなくなった場合には、条里地割もまた存在の必要性が低くなり、不規則な形状の地割形態が多くなりやすいであろう。さらに、のちになってから、条里地割的な土地区画が荘園や村を単位として形成される場合もありうる。最近増加した考古学的調査の結果でも、十一・十二世紀以後に規則的な条里地割の形成が進んでいる場合が多いことも知られている。越前・若狭国の平野の各地にみられた条里地割も、このような複雑な過程を経て近年まで継承されてきたものであった。



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