目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      条里プランの機能
高串村・糞置村などでは、条里プランによる記録と現地との対応関係の不明確さ、あるいは条里プランによる記録の手続きそのものの混乱などによって、いったん収公されたあ
と、改正の手続きを経て再び東大寺田となった土地が多かった。その場合にも、改めて「十八串方西里七葦原田分六段二百拾六歩<乗田>十七葦原田七段<足羽郡全輸正丁口分>」などと一筆ごとに記録がなされ、このような行政的な記録によって初めて当時の所有権が確立し保証された。
 八世紀の越前国の東大寺田には、寺自身が選定して開拓を進めたもののほかに、高串村のように買得田に由来するもの、生江東人の寄進田一〇〇町を基礎とする道守村のようなものがある。これらはいずれも、もともと墾田であり、低湿な高串村の寺田のようにかならずしも条件のよい土地ではなかった。もっとも条件のよい部分は、八世紀中ごろに墾田が成立し始める以前にすでに開発が進み、主として口分田や乗田として耕作されていたとみてよいであろう。おそらくそのような部分では、条里プランと現地との対応もより明確であり、条里地割の一町方格の径溝の施工も相対的に進んでいた可能性が高い。
 しかし越前国の場合、口分田が分布するような比較的条件のよい部分であっても、墾田となるような未開地が多く介在していたようであり、東大寺墾田と隣接したり、混在する形で口分田の分布がみられることも少なくない。東大寺はしばしば寺田とこれらの口分田を交換し、寺田の集中に努めている。坂井郡の中央付近に位置した子見荘や田宮荘では、合計四八戸の戸主の口分田であった田を、「相替」によって寺田としている。これらもまた一筆ごとに逐一条里プランによって所在が記載されている。登場する戸主の本貫郷はほとんど坂井郡の全域に及んでおり、一部に他郡の場合さえ含まれている。これらの錯雑した口分田の配置やその記録にも、条里プランが果たした役割はきわめて大きいものであったと思われる。
 なお口分田は、戸主の本来の居住地から遠く離れて班給されている場合が多いことになるが、口分田の多くは三段〜一町以上もまとまった場所に所在しており、当時一般に行われていた賃租による耕作依託や口分田付近への実質的な居住地の移動など、さまざまな形の経営をひき起こしたものとみられる。春秋の農繁期に「仮盧」「田居」といった一時的な施設がつくられることがあったことは『万葉集』などにも詠まれているところである。
 これらの口分田・乗田・墾田のいずれについても、条里プランが整備されると、それによって所在地が表示された。行政的には「図籍」すなわち田図と称された地図と田籍と称された帳簿が作成・使用された。田図は、おそらく現存の東大寺開田地図などと類似した記載内容のものであったと予測され、まず条里プランの方格を描き、その内部に口分田・乗田・墾田などの地種別面積などを記入したものと考えてよいであろう。このような田図は、条里プランの一条ごとに一巻の図の形となっていたものと考えられており、越前・若狭国の場合は不明であるが、十一世紀の上野国では八六巻で国内全体をカバーしていたようである。田図には、校田の際に作製あるいは訂正された校田図と班田の際の班田図があったことが知られているが、のちの使用例からすれば班田図の方が重要視され、よく使用されたとみられる。
 一方の田籍の方は、条里プランの表記に従って土地の面積・人名、ないし人名・面積の順に記録した前掲の例のようなものと、まず戸主名を書きあげたうえで条里プランによって関連の土地を列記する名寄せ形式のものとがあったと考えられている。
 このような図籍の記録に従って校田が行われたことは、東大寺の寺田をめぐる経緯からも明らかである。その作業にもとづいた班田の結果が班田図に記され、その後の基本となったこともすでに述べてきたところである。条里プランは、縁辺部や地形的制約などのために、時に不正確・不明確な部分があったとしても、全体としてはきわめて合理的・規則的に土地を表示・記録することのできるシステムであった。口分田・乗田やさまざまな墾田などが複雑に錯雑した八世紀ごろの土地管理のうえで、非常に重要な役割を果たした。



目次へ  前ページへ  次ページへ