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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      条里プランの表現と実態
 「校田駅使」石上朝臣奥継などは、すでに述べたように天平宝字四年の校田を担当した。その際東大寺が開墾した田を寺田とせずに、たんに新開の田として公田の目録に入れて報告し、そのため翌年の班田の際に口分田として配分されたり、農民に賃租に出す乗田用の公田とされたりしたという。そこで、東大寺の主張に応じて天平神護二年に越前国は帳簿を改めて寺田に戻し、そのために所属が変更された口分田の代わりには乗田を充てたという経過が知られる。ところが、たとえば東大寺領足羽郡糞置村の場合、造東大寺司の官人、東大寺の僧、長官以下数人の国司の署名をもって寺領を確定し、天平宝字三年に写真96のような開田地図を作製しているのである。同図には山の陵線や山麓線、さらに条里プランの区画線が描かれ、各坊(坪)ごとに寺田・寺野が記入されている。
 これだけ完全な寺領の確定作業をしておりながら、すぐ翌年の校田の際に寺田の認定を得られなかったことになる。その背景には、藤原仲麻呂政権が寺家側ではなく、公田を優先する政策に傾いていたとの指摘がある。しかし、東大寺の行政的な手続きは問題がなく、また東大寺領のすべてが収公された訳でもない。個々のどの土地が収公されるかという点は、条里プランによる記録が完全であったとしても、それと現地との対応が明確であるか否かが重要な点であった。
 糞置村の場合、天平宝字三年の地図に描かれた溝がすでに条里プランの方格線とはくい違っており、現地には記録上の条里プランと対応する条里地割が明確な形では確認しえなかったのが最大の理由であった可能性が高いとみられる。東大寺は改めて現地との対応関係を説明して、国司側の承認を得なければならなかったことになる。この再確定の際に、国司側は先に紹介したような経過を記し、東大寺僧・造東大寺司官人などとともに改めて作製した地図に署名した。この天平神護二年の地図は天平宝字三年のものとほぼ同じであるが、以上のような経過を反映して微妙な違いがある。条里プランの方格線は同じように画一的に描かれているが、糞置村が比定されている福井市帆谷町・二上町付近に近年まで存在したやや西に傾いた条里的な地割の方向に合致した内容となっている。つまり行政的な記録上の継続性を重視しつつも、描かれた内容は実態に合わせたものに変化していることになる。
 条里プランによる土地表示と現地の対応関係は、厳密な校田の際にはきわめて重要な要素であったと考えられる。しかし、条里地割が明確に施工されていない場合には、その確認がきわめて困難であったり、混乱をひき起こしたりしたことになろう。
図75 高串村における東大寺田分布の比較

図75 高串村における東大寺田分布の比較

 すでに何回も言及した「高串葦原」の場合もまたかなりの混乱を経験している。天平宝字八年に間人宿鷹養から東大寺が買い取った墾田は、前述のように天平勝宝九歳まで高橋連縄麻呂の墾田であった。ところが、天平宝字五年の田図には、鷹養ではなく縄麻呂の名前が記載されたままであり、しかも条里プランによって表示された所在地が、天平宝字八年のそれと異なっているというのである。そこで天平神護二年に改めて記録を訂正し、地図をも作製したという経過が知られる。天平宝字八年に東大寺が買得した田と天平神護二年に再確定された東大寺領の高串村とを対比してみると図75のようになり、南を除く周囲の境界がまったく同じ表現でありながら、かなり異なった分布状況である。この間の荒廃や開拓などの変化を想定するとしても、東西方向のみで条里プランにして一坊(坪)分程度のずれがみられることは確実である。しかも高串村が、福井市白方町付近の三里浜砂丘東側の低湿地に位置するから、天平宝字八年の文書に表示されたような、南北に一里分以上も田が分布する状況は、微地形条件からみて不都合である。砂丘の麓の標高二メートル程度の部分に、東北―西南方向に分布したと考えるのが、微地形条件にはもっとも適合性が高い。このように考えるとすれば、天平宝字八年の四至の南を限る「榎本泉」が、天平神護二年の開田図では寺領西南隅付近に記入されている事実とも適合する。天平宝字八年の条里プランによる表示は、坂井郡主要部の条里プランからすれば、方向と位置に若干のずれが存在したものであった可能性が高いことになる。
 この高串村は坂井郡西端の低湿地であり、前述の糞置村は足羽郡南端の小さな谷の部分である。このような縁辺部におけるやや開発の遅れた部分では、すでに紹介したような条里プランの不明確さや行政手続き上の混乱が生じたであろうことは、おそらく無理からぬところであろう。福井市西南郊の日野川・足羽川合流点東南付近の東大寺領道守村の一帯においても、やはり天平神護二年の開田地図に描かれた条里プランは、足羽郡の主要部とは方位においても位置においてもずれのある状況であった。



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