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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      越前・若狭国の条里プラン
写真72 鯖江市中野町付近の条里地割

写真72 鯖江市中野町付近の条里地割

 福井県の平野のいたるところに、かつて写真72のような規則的な碁盤目状の土地区画がみられた。道や畦畔、川や溝に区画された方格の一辺が約一〇九メートルであり、その内部の面積が一町(一〇段=約一・二ヘクタール)である。その内部が一段(三六〇歩=約一二アール)の長方形の地筆からなるのがもっとも典型的な地割形態である。このような規則的な方格状の地割を条里地割とよび、面積一町の方格は本来条里呼称法の坊(坪)の区画に対応したものであった。条里呼称法はこのような条里地割をともなうことによって、きわめて明確に合理的な土地表示システムとしての役割を果たした。そこで、条里呼称法と条里地割の両者、あるいはそれが一体となって現実に存在するか、存在すべきものとして行政手続きないし記録上取り扱われたものを「条里プラン」と称することにしたい。条里プランは従来、班田収授の実施のために存在したと考えられてきた。ところが、班田の最初は白雉三年(六五二)であり、持統天皇六年(六九二)には、六年ごとに班田を行う六年一班のシステムが開始されているから、条里プランなしで班田が実施されていた期間は五〇〜一〇〇年間にも達することになる。八世紀中ごろになって条里呼称法が導入され、完成した条里プランはむしろ、増大した墾田を口分田などと区別して正確に記録し、さらにその許認可のための確認の手続きを間違いなく実施するためにこそ必要であったとみてよい。もっとも、それにもかかわらず間違いが発生した場合があったことは、のちに詳しく紹介したい。
 さて、越前国の条里プランは、先に例示した高串の場合に「西北三条十八及田里」と記されているように、各郡を東西・南北二本の基準線によって四象限に区分し、図73のように各象限ごとに東北・東南・西南・西北の区分を付して表示する形となっていた。このような様式は、現在のところ他国では知られておらず、越前国の条里プランの大きな特徴である。すでに紹介したように各里に固有名詞が付されているのも、ほかに例は多いが、やはり特徴の一つである。条は南北方向に、里は東西方向に基準線から順に数詞が付され、里内の一〜三十六の坪並はすべて千鳥式で基準線の交点から外側へと進む方向に設定されていた。
図73 越前国の条里呼称システム

図73 越前国の条里呼称システム

 坂井郡・足羽郡・丹生郡については、それぞれ文書史料・絵図史料、さらに坪並が地名化して残った「一ノ坪」「二ノ町」といった小字地名などによって条里プランの復原が可能であり、基準線の位置は図81のようであったと考えられる。この三郡の場合、直交する南北・東西両基準線は、いずれも各郡域の中央に設定されたものではなかったようである。とくに南北基準線は、足羽・坂井郡で東偏し丹生郡では西偏していることがわかる。そのなかで、弘仁十四年(八二三)に丹生郡一八郷三駅のうちの九郷一駅を割いて今立郡を建てた際には、ほぼ日野川付近すなわち南北基準線付近で旧丹生郡を分割したものと考えられる。
 この年、江沼郡・加賀郡を越前国から分離して加賀国とし、両郡をそれぞれ二分して江沼・能美・石川・加賀の四郡としたことも知られる。それまで越前国に属していた江沼郡の場合、同郡の東大寺領幡生荘について、天平神護二年に「荒廃田十三町<東北十五条田既荒者>」といった記載がみられるから、越前国の他郡と同様の条里プランであった可能性が高い。大治五年(一一三〇)の史料にみえる「幡生村」の四至には「東比楽河 北十五条与十六条堺畔」とあり(寺六四)、同荘が手取川南岸の辰口西部遺跡付近に比定されていることからすれば、図74のような位置に江沼郡条里の東西基準線のおおよその位置を推定することができる。
 さらに北側の加賀郡の場合、小松市横江荘遺跡に近い金沢市上荒屋遺跡から、東南条里の坪並を図示した特異な木簡と、「庄 五条十九町三段三□」と記した木簡が出土したことに注目したい。いずれも上荒屋付近の条里に関係するものとすれば、その付近が加賀郡東南五条に相当することになり、図74のような基準線を想定することができる。いずれも平野の形態上西北条里区がほとんど存在しえないことになるが、東西基準線は近世の郡界線から大きくはずれてはおらず、ほぼ平野を南北に二等分する位置となる。
 一方、若狭国の場合、条里呼称法による土地表示を記した史料は十二・十三世紀のものまで下り、八世紀ごろの状況は不明である。しかし、「億田里一里・二里」ないし「木前五里・同六里」といった様式で表現されており、越前国とは大きく異なっている。前者のように条に相当する帯を固有名詞の里で表現し、その各里に数詞を付したか、条ごとに固有名詞のみを付して数詞の里を配列したかのいずれかが原型であった可能性が高く、狭小な平野からなる若狭国の場合、これで十分に用を足したものであろう。東西に長い小浜平野では、平野を南北に横断する形で、「億田・木前」などの各里ごとに数詞で南から北へと数え進んでいたことや各里の一里が必らずしも横に並ぶような形態で接していたわけではなかったことが判明した。
図74 江沼郡・加賀郡の推定条里基準線

図74 江沼郡・加賀郡の推定条里基準線



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