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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      条里呼称法の導入
 東大寺が鷹養から買得した「高串葦原」の土地九町余は、東を「串方江」、西を山、南を「榎本泉」、北を「榎津社」に画されていたが、さらに「西北三条十八及田里七足原田分西北角一段」といった形で詳細に表示されていた。このような土地表示の方法は、具体的には天平十五年ごろから使用されている例が知られ、面積一町(約一・二ヘクタール)の正方形の区画を基本とし、その区画を三六個集めた正方形ごとに一〜三十六の番号を付すのが一般的であった。面積一町の正方形の区画は、八世紀には「坊」とよばれ、九世紀以後は「坪」とよばれるようになった。これを三六集めた正方形の区画は「里」とよばれ、里が一列に並んだ帯を条と称した。条里呼称法とでもよぶべき土地表示システムであり、碁盤目の方格状の地点表示によって、きわめて規則的・機械的に土地の所在を示すことのできる画期的方法であった。先に例示した「三条」はこの条ごとに付された番号、「十八及田里」は三条の各里に付された里の番号と名称、「七足原田」は里のなかの坊(坪)の番号とその場所の小字地名的な名称である。
写真71 「越前国公験」(寺32)

写真71 「越前国公験」(寺32)

 越前国では、天平宝字元年「越前国司解」(寺七)にもこのような条里呼称法による土地表示例があるが、天平勝宝七歳三月九日付「越前国公験」(寺二)は、東大寺と鷹養の土地売買を示した天平宝字八年の文書(写真71)と同じ様式と性格のものでありながら、条里呼称法による土地表示をしていない。田令では、口分田の場合でも「給し訖らば、具に町段および四至を録せ」と規定していて、土地表示は面積と周囲の境界によるのが本来の様式であり、天平勝宝七歳の公験もまたこれに従ったものであった。したがって越前国では、この天平勝宝七歳三月と天平宝字元年との間に土地表示システムが変化し、条里呼称法が導入された可能性が高いことになる。
 越前国では天平宝字四年に北陸道巡察使石上朝臣奥継の下で校田が行われ、翌年に班田使城上石村によって班田作業が行われたことが知られる。天平宝字元年にはすでに条里呼称法が使用されていたから、この一連の作業がそれによっていたことは確実である。その前の班田は六年前と考えてよいであろうから天平勝宝七歳であり、一般に校田はその前年と考えられる。ところが天平神護二年の「越前国足羽郡司解」(寺三五)には、「]宝五年、校田使国史生次田[」と記しており、越前国ではすでに天平勝宝五年に校田が始まっていた可能性が高い。その際の校田には通常の二倍を要している可能性が高いことになる。
 令の規定では、戸籍の作成は十一月上旬に作業を開始して翌年五月末日までに完了し、校班田は正月に太政官に申上したうえで、十月に帳簿の作成を始め、十一月から翌年二月末までに班田を完了することとなっていた。つまり校班田を含めて造籍と同程度の作業量しか予定していなかったことになり、事実天平十四年の班田までは籍年の二年後に実施されていた。ところが先に述べたような墾田の認可とその増大にともなって、校班田の行政的作業量は著しく増大した結果、天平二十一年の班田からは籍年の三年後となっており、校田と班田にそれぞれ別の年が充てられるようになった。天平勝宝七歳の班田に先行する校田は、越前国の場合さらに一年余分に要したようであり、同五年から六年にかけて、具体的には五年秋から七年春にかけて実施された可能性が高いのである。その理由は不明であるが、この際に条里呼称法による土地表示システムの編成が行われたとすれば、作業量がきわめて多かったのであるから理解が容易である。つまり、天平勝宝七歳春までの校田の際に条里呼称法の編成作業も合わせて行われ、その年の秋に始まる班田の際にそれが正式に使用されるようになったと考えられる。したがって、天平勝宝七歳三月九日の文書ではまだ条里呼称法が使用されず、天平宝字元年にはすでに使用が始まっていたという残存史料が示す状況とも合致する。



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