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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    一 土地の区画と記録・表示
      墾田の成立
 天平宝字八年(七六四)、東大寺は正八位下間人宿鷹養という人物から、銭三
三貫で家と土地を購入した。所在地は越前国坂井郡海郷であり、「高串葦原九町三段一四四歩」と「家壱区<草屋二間>」からなっていた。家は草葺の粗末な掘立柱の建物二棟であったが、九町余の土地のうち七町二段一四四歩はすでに開墾されていたから、かなりの規模の墾田であった。
 鷹養は平城京左京二坊に本貫のある従七位上間人宿鵜甘の戸口であったから、おそらく平城京の下級官人であるが、この地は実は地元坂井郡荒墓(伯)郷の高橋連安床の戸口である高橋連縄麻呂の墾田であったものを、天平勝宝九歳(七五七)に鷹養が買い取ったものであった。つまり八世紀の中ごろに、地元の農民が開拓を進めて墾田とし、それを平城京の下級官人が買い取り、さらに七年後に東大寺に売却したものであったことになる(寺三二)。
 律令国家は、本来公地・公水を原則としており、このような墾田の所有・売買を認めていなかった。しかし大宝令が施行されて間がない慶雲三年(七〇六)、早くも「王公諸臣」といった有力者が、公共の土地であるべき「山沢」を占有する傾向があることを指摘している。和銅四年(七一一)にも「親王已下豪強之家」が「山野」を、同六年には「諸寺」が「田野」を占有することを禁止する必要にせまられている。この後、律令政治を主導し、養老律令の編纂を進めていた藤原不比等が没し、皇親勢力を代表する長屋王に政権が移ると、養老六年(七二二)には、国郡司の監督の下に、国家の費用で開墾を行わせようとする良田一〇〇万町歩の開墾計画がたてられた。続いて翌年には三世一身法が発布され、個人的な開墾と墾田の経営が承認されることとなった。ついで天平十五年(七四三)に墾田永年私財法が施行されると、三世一身法が設けていた墾田の私的用益の年限に関する制限が廃止され、墾田の私的所有権がほぼ完全に認められた。国司がその在任中に開墾した田を私財とすることを禁じたのは当然として、加えられた制限は、開墾には国司の許可を必要とすることと、位階・職階に応じた所有面積の上限が設定されたことのみであった。上限の最高は一品・一位の五〇〇町であり、最低は初位以下庶人の一〇町であった。
 先に紹介した縄麻呂は無位であるから上限は一〇町であり、鷹養・東大寺と転売された九町三段余の面積が縄麻呂の時から変わっていないものとすれば、制限面積の上限に近い規模であったことになる。ただし、一般の農民の墾田がかならずしもこのような規模を有していたわけではない。たとえば天平神護三年(七六七)に申請された足羽郡中野郷の生江広成の墾田は一段二一六歩であり、同年に、付近に八段八二歩、四段二九四歩、三段などの小規模な墾田が所在した。天平宝字三年の糞置村開田地図にも「五段百姓本開」といった記載があり、周囲に東大寺の寺野が広がる小さな谷奥における小規模な墾田の所在を知ることができる。東大寺はのちに、寺領として設定した開墾予定地内において、「百姓等」が私的に開拓を進めて墾田としている例が多いとして抗議しているが、これらの例は数段程度の小面積の墾田が多かった実態を反映しているものであろう。
 一方、足羽郡大領の生江臣東人の墾田や坂井郡大領品遅部君(公)広耳の墾田はいずれも一〇〇町に及ぶ面積を有していたが、東人のそれがまとまった分布を示しているのに、広耳の墾田は坂井郡各所に分散して所在していた。このほか、大伴宿麻呂・田辺来女・船王などの平城京の貴族・官人もまた大規模な墾田を越前に経営していた。なかでも広大な墾田を所有したのは東大寺であった。天平勝宝元年に四〇〇〇町もの墾田の枠を確保した東大寺は、越前国など北陸各地を中心に大規模な占地を行い、また寄進を受けたり、買得を進めたりして、大々的に荘園経営に乗り出した。先に紹介した「高串葦原」の取得もその一環であった。



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